今、古本屋で買ってきた「惑星の暗号(The Mars Mistry)」という本を読んでいる。ずいぶん前に火星探査機が撮影した火星の大地に写る「顔」のようなものを巡る科学者の論議や、筆者なりの解説をしている本だが、系統としては、科学の解説書と学研から出ている「ムー」という雑誌の中間くらいに位置する本かなと思う。
今同時に「揺籃の星」(J.P.ホーガン)というSFを読んでいて(電車でしか読まないので遅々として進まない)、この2冊がかなり頭の中で混乱をしているのだが、この、実証的な部分では証明困難な科学というのが非常に面白い。
火星の顔やら、ネッシーやら、宇宙人やらを本気で信じている人は信じている。一笑に付す科学者や文化人もたくさんいる。
そんな中で宇宙人というのは特殊な存在だ。
なぜかと言えば、我々地球人が存在するからだ。
火星の顔やその本に出てくる「シドニア」と呼ばれる地区に散見するピラミッドやその他の建造物と思われる物体は、よっぽど解像度のよいカメラで撮影されるか、人がこの目で見るまでは、存在そのものが証明しづらい。NASAは自然現象だと言っているらしいから。
同様に、これだけ技術の発達した時代に、いわゆるUMAと呼ばれる未確認生物は、精細な写真がまずない。あると主張するより、いないと考えた方が納得がいく。
これはA.C.クラークが言うように「タイムマシンが不可能なのは、未来人がこの時代にいないからだ」というのと同じくらい本当らしい。
また、太古の先駆的文明「アトランティス」や「ムー」「レムリア」といったものも、その根拠をせいぜいプラトンの見聞などに依っていたりする辺りで、非常に証明がしづらい。すなわち信じるに足りない。
尤も、シュリーマンの例もあるように信じれば扉が開かれることだってあるのだ。信じる人々はがんばって、私のような、「あったら楽しい」と思っているだけの無責任な人間の心にも火を付けて欲しいものだ。
さて、そんな中で宇宙人。
この広大な宇宙(これだってどれだけ広いか確かめた人はいない。今の科学現象の仕組みを満足させるようなやり方で、ちょっと遠いところに住んでいる髭を生やしたおじいさんが、一生懸命ランプを付け替えているとしたって、誰も証明できる訳じゃない)に、人類以外に文明を持つ生物が存在する可能性は、普通に考えれば非常に高いことは、科学者じゃなくても容易に想像できる。
もちろん、遙か彼方のイスカンダルに、顔色だけが違って日本語を話すデスラーがいるとは誰も思わないが、意外と信じやすいのは昔からUFOの話で出てくる吊り目でのっぺりした顔の小さな宇宙人かも知れない。まあ、真偽は別にしても見たという人や写真があるから、矢追ディレクターでなくても信じたくなるというものだ。
ところが世の中は面白い物で、ああいえばこういう人がいるので、かたくなな「人間原理」なるものを唱える科学者達は、この宇宙に人類こそ唯一の知的生命体だ、いや、人類がいるからこそ宇宙が存在するとまで言い切っている。
もちろん、証明できないし、反証も難しい。
宇宙人がいると言っている科学者の多くは、だからといってUFOに乗って地球を訪れていると思っている人はほとんどいない。そこにはアインシュタインが、この世には光より速い物はないという前提で作り上げてしまった相対性理論という壁がある。この理論が現実に証明されていけば行くほど、光より速く移動できないという事実を、科学者は受け入れなければならないのだ。
光は太陽まで進むのに8分以上かかる。ノミのチャンピオンが、隣の犬に乗り移るのに1秒しかかからないぜ!と自慢していても、彼はアマゾンの奥地に住むかどうか解らない毛むくじゃらの生き物に乗り移る前にその一生を終えるだろう。恐らく宇宙の広さは、たとえそれがすぐ近くのSFでよく出てくるアルファ・ケンタウリでさえ、もっと遠いのだ。
そんなところから生き物が、乗り物に乗ってやってくるだろうか?否。
それが現代の科学って言うものだ。
でも、そういいながらも、科学では解らないことはたくさんある。科学というのが、この世の成り立ちを理屈と算術で説明する学問だとすれば、この世に科学で説明できない物はない。単に現代の科学が未熟って言うだけだ。
幽霊だって、あの世だって、あらゆる不可思議現象は科学で説明できるはずだ。というより、そこに明確な説明付けをして納得させてくれるのが科学の役割だ。と思う。
宇宙人が、五体満足であるかどうかとか、酸素を吸って二酸化炭素を吐いていないといけないとか、水がなければ生き物は生きていけないとか、いずれにしたところで地球上の常識から逸脱した存在を規定することは今のところ作家の領分かも知れない。人間の脳が、シナプスと神経の電気的な繋がりで活動しているとしても、他の惑星に生まれた生命が同じ生命活動をしているとは限らない。
ニュートン力学は19世紀の終わりまで、最終的な力学的答えだと思われていた。何百年もだ。相対論や量子論が生まれてまだ100年弱。次に何が起こるか解らない。
明日にでも宇宙人が「ハロー」と取り敢えず最も多くの地球人が解るであろう言葉で挨拶して登場することだって十分に考えられるのだ。
この時代に生まれたことは、かつてイギリスの産業革命の時に立ち会ったのと同じかそれ以上の画期的なことだと思うが、今後の100年、200年をこの目で見ていくことができないと思うと、何か悔しい。