MIXIのニュースを読んでいて日刊サイゾーという実は何のサイトかよく分からないサイトの記事を見つけた。
 「言葉狩りより芸術性」放送禁止用語を堂々流すTOKYO MXという見出しで、TOKYO MXで放映されている「帰ってきたウルトラマン」における放送禁止用語を未処理で放映しているという件に関する話だ。
 いずれ記事は消えてしまうと思うので、このエントリーの最後に全文を引用しておく。
 そもそも放送禁止用語とは、差別的に使われる言葉などを放送上利用しないための自主規制用語だと理解しているが、同時にそれは、出版禁止用語でもある。その言葉の問題を論じた書物などであれば別かも知れないが、通常の書物からは、基本的に排除される言葉だ。
 この、放送禁止用語と差別用語は、似て非なるもので、実は非情に難しいし、差別用語には、まさに差別用語として、差別目的に造られた言葉から、差別的に使われることが多かったためにそうなった言葉、ある種の職業などに対する差別が、その職業に対する呼称を差別用語にした例、それらの差別用語を用語の一部に含むと見られる言葉など、一見して解る言葉から、首をかしげたくなる言葉までいろいろ含まれている。
 今回の記事にも言及されている、「日雇い人夫」という言葉は、現在では漫画は「日雇い労働者」と言い換えられているらしい。手持ちのDVDのアニメでは、かつてテレビの再放送で口パクになっていた部分が復活して、「日雇い人夫」と言っていた。もちろんこの「人夫」がそれにあたるので「日雇い」ではない。
 人夫という言葉は、いわば肉体労働者であり、かつては土方(ひじかたじゃない)という表現もあったが、これもたぶん今は放送禁止だ。
 だが、この「人夫」や「土方」という表現のどこが差別用語なのだろうと思う。言葉というのは、差別的に使おうとすれば、意外に多くの言葉が差別的に利用できる。
 例えば前述の巨人の星だが、ブルジョワの集まる青雲高校を貧乏な星飛雄馬が受験した日の面接のシーンの話だが、面接を待つ待合室では、訪れた父兄が、ここは上流家庭だけが受けるはずなのに場違いだなどということを語り合い、面接会場に入れば、下町の川堤中学出身だという飛雄馬を、学校サイドの人間が、下町のどぶくさい人間が青雲高校を受けるとは、と言い、飛雄馬が父親を「日本一の日雇い人夫」と言い切った際に、PTA会長の伴大造は「日雇いの子が青雲にやってくるとは前代未聞だ」と高笑いをする。
 このシーンで差別的に使われている言葉は、「日雇い」であり、「下町」「貧乏」という言葉だ。むろん、このシーンを見る人間は、星に対するいわゆるブルジョア階級の(現代日本にそんな階級はないが)あり方にこそ鼻白む思いがするのが普通で、賛同する人は少ないはずだが、おそらく昭和の日本では、少なからずあったし、実は今でもそういう階級意識がなくなったわけではない。
 いや、こういう階級意識に根ざす差別的な感情が、少なくとも資本主義社会から完全に消え去ることはないだろう。これは、人種差別もそうだし、国家間の差別だって、根絶することはきわめて難しい。中国の中華思想だって、ユダヤ教の選民思想だって、日出ずる国の天子という表現だって、根幹には他社との比較と優越感があり、そこに差別が生まれる土壌があるのだ。
「日雇いの子が名門青雲に」と笑い飛ばす伴大造は、デフォルメされているとはいえ、「お隣のお子さんは東大なのよ、それい比べて何とかさんは名前も聞いたことがない私立大学」というのと、同じだ。
 ブスという表現がテレビでいかに頻繁に使われることか!
 ブスという表現は明らかに差別を目的とし、差別的に使われているが、差別用語とは言われない。だが、ブスと言われてうれしい人間などいるはずもない。場合によっては、その言葉が人生を大きく変えてしまうことだってあるかも知れない。
 だが、それでも言葉はやはり言葉に過ぎないのだ。言葉は単にコミュニケーションツールであって、それ以上ではない。ツールであるからこそ、その使い方と目的が大きな問題になる。
 
 よく差別用語の話は「言葉狩り」という表現を使われる。
 もちろんそういう側面もある。だが、差別され続けてきた側から言えば、おそらく「言葉狩り」は最も効果的な差別廃止の手段でもあったに違いない。差別用語の種類によっては、おそらくそれは正しい。
 とはいえ、すべてがそれでいいわけではない。言葉はあるものだし、存在するもの、こと、現象、思想、状態などあらゆることを記述するために必要だし、すべてが言い換え可能なわけでもない。
 言葉は常に、同時に使い方を含めて考えるべきだし、前述したように、多くの言葉が差別的に使用可能だ。なくすべきは差別であって言葉ではない。「帰ってきたウルトラマン」が「言葉狩りより芸術性」という表現で語られるような作品であるかどうかは別にして、かつてはそのようにして使われた言葉を、消していく作業というのはいかにも社会主義的というか体制的なにおいがする。
「きちがい」という言葉がいけないという理由で「カーキチ」や「釣りキチ」がいけないということになれば、やはりそれは表現を破壊していく好意であるし、言葉の意味を無理矢理一方向に向ける行為でもある。
「片手落ち」という言葉が、身障者を連想させるという理由で使えないのであれば、「手落ち」自体を禁止しなくてはいけない。
 文脈の中で「片手落ち」という表現を使うとき、あからさまに片腕のない人を貶めるような意味で使うことは、はなはだ困難であり、むしろこれなどは曲解と言っていい。
 先日台湾だか中国だかのニュースで「おばさん」と言われたから侮辱罪で訴え、言った人間が拘束されたというのを読んだ。言われた側にしてみれば、侮辱を感じたかも知れないが、これを罪に問うていては、世の中は罪人の山となってしまう。
 もちろん侮辱などしない方がいいに越したことはないが、この人も侮辱しようと思っていったとは思えない。
 多くの場合、言葉は話し言葉であれ書き言葉であれ、非情に頻繁に誤解を内包している。それは親しい間柄であれ、そうでない関係であれ、少なくはない。だが、誤解は解けばいいし、何もかも悪い方へ誤解していく必要もない。
「きみは映画気ちがいだな」と言われて、相当な映画好き以上の意味をそこから導き出すことは難しい。英語のクレイジーも精神的な異常と、執心の双方の意味で使われる。
 スチュワーデスを客室乗務員、キャビンアテンダントに言い換えても、めんどくさいだけでそれほど意味があるようには思えない。たぶん一部の人は満足するだろうが、それ以上ではない。
 そんなことよりも、自分の夫を、「主人」と言ったり「亭主」と言ったりすることの方が気にしてしかるべきだと思うが、それは問題ないみたいだ。
 いずれにしても、存在する言葉は自由に使えて、その意味を的確に使える文化が望ましい。後進国を発展途上国に変えてみても、自分たちが先進国であれば、何も変わらない。変えるべきは意識だったり、考え方の方だ。
 そこをおざなりにすれば、いつまで経っても電車から無用なシルバーシートは無くならない。どこに坐っていようと、年寄りや身体の不自由な人、辛そうな人などには席を譲るという文化の方が大切だ。差別もまた同じことのはずだ。
 


 一瞬、我が耳を疑った。何気なく見ていたテレビから、いわゆる「放送禁止用語」が、普通に流れてきたのである。
 番組は、TOKYO MXの「円谷劇場」という枠で再放送されている、『帰ってきたウルトラマン』。70年代以前に制作された番組には、現在では放送に不適切な表現を使用していることが時々あり、その部分を無音処理して放送されるケースが多い。最も有名なケースが、『巨人の星』の少年時代のクライマックス、主人公・飛雄馬が父のことを誇りに思う名シーン、「父ちゃんは、日本一の日雇い人夫だ!」という箇所が、無音になってしまっているところだ(ちなみに現在では番組サブタイトルも変更されている)。こういった処理は、地上波、BS、CS問わず、現在ではそれが当たり前のこととなっている。『太陽にほえろ』で三田村邦彦が演じたジプシー刑事は、そのニックネームそのものが現在ではちょっと問題らしく、現在地上波では放送されなかったりもする。
 しかしこの『帰マン』、また別の回でも無音処理されず、そのまま放送された。「円谷劇場」では番組冒頭、画面一面に、こんな注釈が映し出されてから本編がスタートすることになっている。
<本作品は作品のオリジナリティーを尊重するため、そのまま放送します。ご了承ください。>
 コミックの世界でも、外国人の表現などで一時期発売が自粛されていたものが、このような一文を入れることで、再発売されるようになったケースもある。もちろん、ケースにもよるだろうが、極端な内容でなければ、作品性を尊重するという意味では、ひとつの正しい判断かと思う。
 しかしそれにしても、東京ローカル局ではあるが、最も目にする機会の多い地上波で、このクレジットを入れるだけで、そのまま放送するというのはスゴい。ある特撮マニアが言う。
「MXの『怪奇大作戦』という番組の再放送のとき、内容が危なすぎて、今は欠番となった回があるんですが、なぜかそれが放映予定リストに入ってたことがあったんです。スゴイ! と思ったのですが、さすがにそれは放映されず、別の回が放送されましたけどね。それでもそのまま流してくれるMXのこの枠は、評価高いですよ」
 TOKYO MXの担当者に話を聞いた。
「まさにその通りです。現在では適切ではない表現が出てくることもあるのですが、作品の作られた時代背景や、芸術性などをご理解いただいたうえ、オリジナリティーを尊重し、そのまま放送するということにご理解をいただきたいと思っています」
 これは、決してMXが基準のゆるい局だということではない。「円谷劇場」が、夜11時台の放送ということもある。他の時間帯での再放送の場合はまた、音声処理なども含めた、別の対応になってくるわけで、午前中の再放送だった『巨人の星』では、音声を処理したものが流された。
「時間帯と、この番組に関しましては、主に30代後半~40代の視聴者の方が多いと思いますので、オリジナルの放送をすることの意義を理解していただけると思います」(MX担当者)
 ところで、このいわゆる「放送禁止用語」の扱いだが、実はこれは、明確なガイドラインというものが存在しない。各社それぞれの判断ということになる。あるテレビ関係者が言う。
「民放連で設けた、放送基準のガイドラインはあるのですが、それには強制力はないんです。だから、各局の自主判断ということになるんですが、スポンサーを気にしたりして、なかなか思いきったことはできない。ちゃんとそのまま放送しているMXはすごいですね」
 音楽の世界でも、長らく放送禁止曲の扱いだった『イムジン河』が、テレビで流れるようになったりなど、内容を吟味したうえで、問題なく放送できるようになるケースも増えてきている。
「たけしさんの言う『ペンキ屋』とかもそうですが、侮蔑的でない場合とか、なんでもかんでも言葉狩りみたいにしていくよりも、それぞれの判断で流すという流れになっていくんじゃないですかね」(前出・テレビ関係者)
 視聴者側にも、メディア側がどういう判断で「危ない一言」を放送しているのかというリテラシーが求められていくのだろう。(編集部)

1件のコメント

  1.  はじめまして!

    私なりに興味深く、気になるタイトルでしたので、読み進めさせていただき、結果最後まで一気に読んでしまいました。

    実は私の両親。父は大手新聞社、母は民間放送局の報道関係に在職していました。
    ですから、ニュース (報道) 記事の原稿内容、アクセントは気になっていた様ですね。

    その一方で、報道関係の内容以外の事については気にはするものの、あまりとやかく言わなかったです。

    唯、貴殿も書いておられましたが、放送 (報道) 禁止用語というものは存在せず、「書く時、読む時に注意を要する用語、言葉集」というガイドラインが冊子化、配布されていた、とは聞いておりました。

    ですから、ガイドラインに沿うとついつい遠回しな表現になってしまう事しばしば。そのため、わかりにくくなる場合は注釈を入れていた様です。

    ちなみにマスコミの記事というのは、一応義務教育終了時点、中学卒業程度の学力があれば理解出来る様にしていたと聞いております。

    とはいえ、両親が現役時代と現在では半世紀近くも開きがあります。言語学者の金田一春彦氏が生前「言葉は生きている。だから、その時、場合、状況に応じて臨機応変に対応すべきもの」だと話されておりましたが、やはりその都度、対応すべきなのでのね。

    だから、あえて音消しせず放送開始前に注釈を入れた上で対応した、東京MXテレビは評価に値します。

    ちなみに母が現役引退後の事。番組中に「びっこ」という言葉が出てしまい、放送終了後に謝罪が入った事を聞いたのを観て、彼女いわく。「言葉として存在するのだから、本来はそのまま放送すべきで、謝罪する必要性は無いんだよね。だって、良しと感じるか悪しと感じるかは、ヒトによって異なるんだから!」と。

    以上、10年以上前の寄稿に対して、大変長き拙い文章になりましたが、感想を述べさせていただきました。

    あと最後になりましたが、貴殿の文章の中で70行目前後に「日の出ずる処の天使」の箇所があるのですが、「天使」という表現よりは「天子」では無いでしょうか。
    前者ですと、キリスト教用語の Angel になってしまうと思いましたので、貴殿の見解をお知らせ下さい。

    吹野 浩道 (フキノ ヒロミチ)

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