東京は一昨日梅雨明けをしたわけだが、何となく夏らしくない天気が続く。
記憶だと、梅雨明けは激しい雷雨とともに訪れ、それ以降は、いわゆる夏らしい濃い青空と照りつける太陽といったイメージなのだが、梅雨明けの発表があった日だけで、昨日も今日も曇りがちだ。
昨年は台風の当たり年で、夏から秋にかけて被害が続出した。この当たり年という表現、実は台風などに使うのは本来的な意味に於いては違うらしいが、今では普通に使うので、そういう意味になったと言うことだろう。
今年の夏は去年のようなことはないと、どこかの天気予報で言っていたが、来週初めにも、関東を台風が直撃するかも知れないという予報も、先ほどのテレ朝の天気予報では言っていた。
異常気象という表現は、正常な気象に対する対語だが、では何を以て正常な気象というかというと非常に曖昧だ。例えば東京では、50年、100年前というと、かなり雪も降ったりしたらしいが、ここ最近は、大雪と言ってもたかが知れている。それは今年急にそうなったわけではなく、少しずつ変化してきたわけで、その原因がフロンガスやら二酸化炭素の急上昇による地球温暖化の影響だとしても、そういう意味ではそれほど異常なことではないように思える。なるべくしてなったと言うことになるわけだからだ。
確かに、長い地球の歴史の気候変化に比べて、最近の気候の変動は異様に急速なのかも知れない。しかしそれは、人間が文明を発達させてきた速度と比例しているかも知れないし、ことさら不思議なことではない。
人類はどんどん数が増え、森林はどんどん減り、様々なこれまで自然界では少なかったガスや化学物質を放出してきたツケが、来ているとすれば、それが気候に影響を及ぼすのは自然の成り行きだし、あたかもここ数年だけ「異常」であるかのような表現はおかしなことだ。
もちろん、人類がより長くこの地球で繁栄していくためには、そのままでいいわけはないが、アメリカなどは、いまだにそんな未来のことよりも、目先の経済活動を優先しようとしているわけで、実はそういうことの積み重ねが現代社会を作り上げてきたわけだから、悲しいかな、人類全体の未来はそれほど明るくはないようにも思える。
しかし、70年代の日本は、例えば東京湾でもヘドロがたまり、工業廃水などで川や土地、空気も汚染され、ゴジラシリーズは「ヘドラ」と闘ったりしていた。郊外は先行きを暗く予測させ、世界的には冷戦構造の中で、核戦争の脅威もそれほど非現実的なことではなかった。
現代でも、よくテレビでは地方で産廃業者が不法投棄したゴミの山や、一般の人たちでも無造作にゴミを捨てることで、有害なガスを発生させたりしている様子を放映したりしている。しかし、東京湾も今では相当きれいになり、かつて公害に汚染されていた川や空気も、この30年で、かなりきれいになってきた。やればできるわけだ。
今アスベストが問題になっているが、昔は石綿金網なんていうのもあった。石綿は有害だが、石綿に代替え品がない物もあるという。だが無くなれば人類は代替え品を用意するものだ。これほど問題になる前に、何度か規制することができたはずだ。石綿に限らずきっと、いろんな危ない物質があって、それが企業や業界の経済的理屈で容認されたりしていることが他にもきっとあるはずだ。全てを洗い出して、人類が未来に憂いを少しでも少なくするために努力していくことは、今を生きる我々の義務だとも思うのだが。
なんだかはっきりしない梅雨明けは、はっきりしない人類と地球の未来への、ささやかな自然の警鐘のようにも思えてくるではないか。