「話を聞かない男、地図が読めない女」という本がしばらく前に流行った。読んだわけではないが、よく方向音痴という人がいる。音痴というのは音の感覚の鈍さが転じて「感覚が鈍いこと」を言う。つまり方向音痴は方向感覚が鈍い人と言うことだが、そもそも、星や太陽でも出ていないで、単純に方向を人が探ることは不可能に近い。曇りの日、砂漠の真ん中にぽつんと置かれて、正確にどちらかへ進むことはできない。
方向音痴は、地図やある目標に対して何かを目安に進むことが不得手なことを行ったり、あるいは、右か左かと言うときに、何となくいつも間違えて方向に行ってしまう(例えば地下鉄の出口を出たあと、目的の建物に行く場合などに)人をそういったりするのだ。
実際に、言っても解らない人がいるし、それはパニクっているのか、理由は定かではないけれど分からないのだ。そんなはずはないと思うのは、できる人間の浅はかさで、実はこのことに限らず、「皆できるのにおまえだけなぜできない」等という、そもそも公平にできていないこの世の成り立ちの中で、あたかも人は平等に生まれついているかのような錯覚をもって教育にあたったり、「やればできる」的な精神論だけで押すなどということが起こるのである。
もちろん、「やればできる」こともあるし「誰でもできる」こともある。だが、そもそも“できる”人が考えるほどに、全ての人が何でもできるわけではない。あるいは、同じ努力でできるわけではない。
方向音痴もある意味それと同じで、全くだめという人もいないかも知れないが、かなり「不案内」な人がいるのだ。
地図も、慣れないと読みづらいものだ。海外の地図などを見ると特にそう思う。
ところで方向感覚というのは、例えば先ほど書いたように初めての駅で地下鉄から外に出たりするとき、迷ったりしないのだろうか?私はかなり気をつけているので、あまり迷わない方だが、そのためには、電車がどの方向に走っているとか、その方向に対してどの方角に出たとかと言うことを意識しながらと、努力をしている。もちろん、努力と言うほど「懸命」さはないのだが、それを考えないと間違えることもある。
太陽が出ていれば、何となく東西南北は感じが摑めるが、都内でもなかなか方角を摑むのは難しい。人間の身体にはそもそもそういう方向感覚というのが備わっているのだろうか?