由比敬介のブログ
サンシャインタウン
サンシャインタウン

サンシャインタウン

mixiのアプリに「サンシャインタウン」というのがあり、それをやっている。
シムシティの限りなく簡単なやつみたいな感じだと思う(残念ながらシムシティをやっとことがないのだが)。
スタッフというのをいろいろな職業で働かせ、街を大きくしていくものだ。スタッフは一定時間働くと収益を上げ、そのお金で家を買うと人口が増え、一定人口になるとスタッフを増やせるという仕組みだ。しかし、人口を増やすと、彼らの満足度が下がり、新しい家が買えない。そこで、稼いだ金は家だけではなく、町の人の満足度を上げるためのデコレーションというのを購入するためにも使うことになる。
家やデコレーションを購入し街に置くと、面積が足りなくなるが、それらの様々な行為によって、ゲームの王道である経験値が貯まっており、一定の経験値をクリアすると、土地を広げることができる。
と、単なるこの繰り返しのゲームだ。
ただ、人生でも人間は同じようなことをやって一生を送っているわけで、いわば、人生の縮図のようなものだ。
さて、ときどきイベントがあったりするのだが、10月にはハロウィンがあり、今回はクリスマスだ。その時期に、特別な働き場が与えられ、ハロウィンの時はお城で、今回はおもちゃ工場だ。
これらの職場は、通常と違って割がいい。短時間でたくさん稼げるようになっている。
今回、ハロウィンの時になはなかった縛りがあって、そこで働かせることができるのはマイミクスタッフなのだ。
マイミクとはもちろん、ツィッターのフォロワーみたいなもので、自分の友達として登録している知人や、mixiの中で知り合って登録した人たちのことだ。詳しくは知らないが、たくさんいる方は何百人もいるのかもしれない。
残念ながら、私の場合は非常に少ない。mixi自体、日記も書いていないし、ただ参加しているだけで、マイミクを増やすつもりはほとんど無い。ただ、相手から言われたとき断る理由もないので、断りはしないが、先方にとって、何もアクションを起こさないマイミクが、あまり意味があるとも思えない。
さて、そんなわけで、私は今回の職場でわずか2人のスタッフしか働かせることができない。残念。
でここからが本題。
世の若い人たち、あるいは子供たちは、友達の人数の多寡で幸せを計る傾向があるようなことを、前にテレビで見た。
もちろん、友達が多いことが悪いはずもない。だが、友達が多いことが=幸せであることも、必ずしも言えないのではないだろうか。何人以上が多くて、何人以下が少ないというのも極めて曖昧な話ではあるが、友達が少ないことを思って落ち込んだりしている人がいるとすれば、悲しいことだ。
自分自身、友達が多いのか少ないのかよく解らないが、友の価値というのは人数で割りきれるものではない。また、深いつきあいかどうかと言う単純なものでもない。
メロスの友情を信じて待つ友の情景は、美しいかもしれないし、すばらしいことかもしれない。だが、何事によらず、人生の価値というのは、一つ一つの物事の切り口だけで決まるわけでもなく、時代や国、あるいは一人一人の感性や考え方によって決まるものである。
我々は得てして、社会通念という言葉で、あたかもこのことはこうあるべきだという、言われなき縛りに縛られることがよくある。もちろん、社会が人の集団であるなら、自ずとそこにルールはある。多くのルールは守られるべきであり、そこから逸脱した場合、裁判で裁かれることもあるだろう。
だが、例えば友達の価値とか、愛の形、生活のやり方など個々人に許されるべきことが、意外に多くを社会によって縛られていることが多い。
極端な例を挙げれば(ここで極端というのは誤解があるといけないのでこの話をするときにその話題か?という意味であり、ことが極端であるという意味ではない)、同性愛というのは、現代にあってさえ、なかなか多くの人から拒否反応を持って迎えられる場合が多いと思う。
だが、同性愛であることが、社会通念上おかしいとしても、それは人の人生に於いては許されるべきではないのか、と私は思う。もちろん、宗教的な心情から許さない人も多いと思うし、それに関しては相手が宗教なので、立ち向かう言葉を知らない。
だが一般的に言って、同性しか愛せない人たちがお互いに愛し合ったら、それで一生を送ることが、そうでない人にとってどんな不都合を生じさせているのだろう?生物学的に見て子孫が増えないのだという論理は、この際、そもそもの同性愛を認めない人にとっての論拠であるとは思っていないので、意味はほとんど無い。
少なからずそれは、その人たちが持つ感情や思想的な嫌悪感などに起因しているだけだ。
ではその嫌悪感をどうしてくれる、という理屈もまた、この世からあらゆる人が嫌悪するものを、片っ端から消していったらどんな世の中になるかを考えれば自ずと解ることだ。ゴミ屋敷の隣に住むというのとは次元が違う。
だが、どう違うのだと尋ねられれば、私は、その違いが例を挙げるだけで理解されないことの方が悲しい気がする。
いわばこういった、寛容と理解がどの程度あるかが、人類の進化の度合いを測るバロメーターなのではないかとさえ思える。自分と他人が違う人生を歩んでおり、可能な限り認め合うことからしか、平和は生まれてこないのだと言うことだ。
サンシャインタウンのマイミクしか使えない設定というのが、実は友が少なくて悩んでいる人たちへの、意外に心に踏み込む刃物になりかねないのだと言うことを、ふと思った。
かつて私は、自分の女好きをジョークにするために、「ホモに人権はない」と言わないでいいことを、全然ゲイではない人物に言ったことがある。実際にそんなことを思っているわけでもないし、単なる軽口以上のことではない。だが今では深く反省している。
冗談でも、軽口でも人を傷つけるのは難しいことではない。そして冗談だから、でいつでも許されるわけでもないのだ。
いじめで自殺する子供もいる。
社会が守れるとしたら、やはり絶えず、人を思いやる気持ちをまず大人が持ち、子供にも教えていくしかない。今の大人たちは、どれほどがもてているだろうか?
人が人に寛容であり優しい態度で接することが第一の社会通念として存在できる未来が来ることを、私は信じたい。

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