由比敬介のブログ
生きていくと言うこと
生きていくと言うこと

生きていくと言うこと

 先日ここで、「傷追い人」について書き、そのせいで読み返した。やはり面白かった。
 最後のシーンで、母を含む3人の女性をそのために亡くした復讐すべき敵が、既にこの世に存在せず、しかもそれがCIAの一機関であることを知った主人公が、自らの生き方を問い直すために、浮浪者が集まるシェルターに身を置くシーンがある。彼は職を求めてそこにいる多くの男達に混じり、但し食も水も口にしない。
 自分を死の直前まで追い込むような行動をしながら、渇望に耐え、彼は改めて立ち上がる。彼はそれができなかった場合、そこで一生を終えるほどの覚悟でそこに座り、そして悔い無き自分の人生の新しい一歩を踏み出すのだ。
 
 さて、人はパンのみに生きるにあらず、というのは聖書の言葉だが、物質的なものよりも精神的なものに重きを置くのは、人類の歴史の中でも、ずっと尊ばれてきた考え方だ。三大欲といわれるのは「食欲」「睡眠」「性欲」だが、「パンのみに」は生きなくても、断食を続ければ死んでしまう。
 つまりここのところだ。死を賭してもすべき事、命あっての物種、この両極端は果たしてどちらが正しいのだろう。
「傷追い人」の茨木圭介はただの超人なので、そこには答えがない。彼のような生き方は、彼のような肉体と、彼のような精神力がないと実現できないからだ。
 だが、「死を賭しても」という姿勢と、「命あっての」という姿勢は、例えばドラマでは、主役と悪役にその立場を置きやすい。多くの人が、命がけで行うことに意義を見いだしているということか。
「食欲」と「睡眠」は、断たれては人間、生きていけない。まさに茨木圭介は、恋人夏子と共に「食」を断たれるが、敵に屈するよりも死を選ぼうとする。このマンガに限らず、こういうシーンは、極めて崇高な雰囲気があり、結果がどちらに転ぼうが、作者は概ね、主人公をそこで殺すことはない。
 人は誰も生きる上で、何か目的を持ちたいと思う。寝て、食って、子供を作ったとして、何か人生に価値が生まれるわけでもない。それが、宇宙旅行でも、出世でも、何らかの目的を持たないと生きていけない。何もないと思っている人でも、例えば、生きるための金を稼ぐのだとしてもそれを目的としていることには違いない。
 実は、人は人生を生きることを目的として生きているのだと思う。あたかも泳ぐのを辞めてしまうと死んでしまう回遊魚のように、常に何かを目的としなくては死んでしまう。そしてそれは、生に執着することの裏返しでもある。
 あらゆる物は永遠ではない。生きていくことの意味は、それが死への行進だからこそ瞬間瞬間に意味を持っている。ことさら、大きな目標など必要ない。
 王様だって乞食だって、土に帰れば同じだ。・・・・いや、死後のことは死んだ人に訊くしかないので、たとえ科学が、意識は脳の中の電気信号だと断定しても、霊魂の存在を否定しきれないのは困ったことだ。
 それでも、生きていくことには意味など無い。どう生きていくかだというのはやはり人を人たらしめている「何か」ではあるのだろう。

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