由比敬介のブログ
有馬記念
有馬記念

有馬記念

 明日は有馬記念だ。
 私は競馬をやらないので(この「競馬をやる」という表現はくせ者だ。つまり「競馬をやる」は馬に乗って戦う騎手のことではなく、あくまでギャンブルをするか否かと言うことだから)、こんな記事を書くのもどうかなと思うのだが、まあ、それはそれで。
 先日友人が来て有馬記念歴代の名レースを収録したDVDを見せてくれた。有馬記念といえば1年の納めのレース、「グランプリ」で、強い馬が集結するレースだが、オグリキャップとか、トウカイテイオーとか私の知っている馬ばかりであった。
 私の年齢で、競馬をやらない人間にとって、競馬馬というと、ふと思い浮かぶのは「ハイセイコー」だが、これとて、歌で知っているだけで、どんな馬かというとさっぱり解らない。しかも有馬記念とは関係ないらしい。
 
 有馬記念は2500メートルを走るということなので、長距離が得意な馬が自ずと出場することになる。去年の優勝場はシンボリクリスエスという馬のようだが、全く知らない。しかもこの馬、2年連続でグランプリを取っている。
 今年はゼンノロブロイ、コスモバルクといった辺りに人気があるらしい。
 私でも今まで競馬を見たことがないわけではない。時折見ると、オリンピックと一緒で、それなりに楽しめる。お金を賭けていなくても。競馬をする友人を見ていても、勝ち負けはもちろん気になるようだが、それ以上に競馬が好きらしい。
 競馬がスポーツだと言うことをよく言う。確かにプロレスも100メートル走もスポーツだから、馬場を走る馬と騎手にとってスポーツであれば、スポーツには違いない。
 同様な理由で、競艇や競輪もスポーツなのだが、これとサッカーのみが賭事の対象になっている。この辺りの仕組みがよく分からない。
 スポーツはほとんどが出場選手の勝敗を競うことで成り立っている。必ず勝者と敗者がいるのだ。どちらが勝つか、あるいはどういう順位になるか、当然予想と結果が食い違うわけで、賭事が可能だ。
 なぜ他のスポーツもすべてかけの対象にならないのだろうか?
 かけが不健康だなどというのは戯言だ。その資金が暴力団に流れたりするからそういう印象を持つだけで、そもそも人生とはかけの連続ではないのか?
 ある商品を売りに出す。それが売れるかどうかで会社の存亡が決まるとしたら、これはもう、人生をかけた大きな勝負で、法律はこんな事を禁じてはいない。恐らく胴元がいないからだろうが。
 大学受験だって、相当な賭だ。結婚だって実はかなりの賭で、よく賭に負けている人もいるのだ。それに比べたら、パチンコや宝くじなどかわいいものだ。
 賭事で人生を棒に振るかどうかは、当然のこと、賭事の問題ではなく、それにのめり込む人の問題である。むしろその賭を活力に、人生を成功させている人だってたくさんいる。あたかも賭事が悪であるかのような風潮は、臭い物にふたをして、ただ見せないというに等しい。
 今度のテストで100点取ったら、好きな物を買ってあげる。
 これが賭事でなくて何だろう?
 人は知らないうちに、子供であろうと大人であろうと、何かをかけて行動を行う。これは、人生が先の解らない賭のようなものだからだ。その人間が、賭を悪く言って、「競馬はスポーツだ」などという逃げ口上を使っている。
 ギャンブルでいいじゃないか?
 私はあまり賭事をする方ではないが、それでスポーツ振興にもなり、基本的に人生は勝負なんだということで、がんばって行ければそれでいいと思うが。但し、相手に対する敬意と尊重、弱者へのいたわりなどはまた別の問題だが。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です