由比敬介のブログ
旅と三宅島
旅と三宅島

旅と三宅島

 三宅島に行ったことがあるわけではない。
 先日、ようやく三宅に帰ることができた人のニュースを見ながらふと思った雑感である。
 私は旅が好きだ。知らない土地を訪れるのは「何が」楽しいのか解らないが、楽しい。前にも書いた「旅の楽しみ」という意味では、料理や温泉やと言うこともその一つなのだろうが、それとは全く違う、単純に「いい気分」だからだと思う。
 私は実家が埼玉県だが、いわゆる郷愁というのはない。電車で1時間半だから、「ふるさと」気分もないのかな?とも思うが、北海道だって飛行機ならそんなものだ。
 私が思ったのは、あの噴煙が吹き上げる三宅島に帰りたくて仕方がない人たちの事だ。それを否定しようって言うのではない。ただ、その中のお年寄りの1人が「自分の生まれ育った土地に帰りたいのは当たり前」といったようなことを言っていたので、ふと、「当たり前かな?」と疑問に思っただけだ。
 もちろんそういう人がいるのは不思議じゃないし、たくさんいるだろう。生まれてこの方50年も60年もそこに住んでいたのなら、愛着もわくのだろう。
 だが私にはその感覚が実感できない。
 私が今住んでいるのは東京の杉並だが、仕事と便利だから住んでいる。書いたように、生まれ育った土地にも別段愛着はない。尤も、私は生まれてから数回引っ越しをしているので、そう言うこともあるかも知れないが、それでも同じ市内だ。
 要は、個人差だと言ってしまえばそれまでなのだが、土地が人間をそこまで縛り付ける「何か」とはどんな物なのだろうな?と不思議に思ったのだ。
 例えば、私はほとんど外国語はできないから、外国で暮らせと言われれば、できれば日本で・・・・と思うが、これで英語でもフランス語でもドイツ語でもできれば、何も日本だけが暮らすのにいいとは限らないので、いろんなところに行きたいと思うだろう。
 それでも故郷は日本だろう、というかも知れない。確かに、故国という意味では日本だ。それは国籍がそこにあるからだ。だが、「ふるさと」と言葉で書くような感情を込めた「故郷」という意味合いはない。親兄弟が住んでいるという意味では、肉親に対する思いはあるから、そこへは帰るが、それは全く土地とは無関係だ。
 田舎と言い表せるほど地方であれば、あるいはそういう感覚も持ち合わせたのかも知れない。もちろん、私の実家は「都会でない」という意味では田舎だが、「田舎へ帰る」という字義から得られる田舎という概念とは無縁だ。実家へ帰ることを「帰郷」とは言わない。
 これは先ほど書いた「距離感の喪失」に原因はあるかも知れないし、視点のグローバル化(というと言い方はかっこいいが)と言うことかも知れない。
 昔のアニメというか怪獣もののドラマに「シルバー仮面」というのがあった。その主題歌は「故郷は地球」というものだった。つまり、宇宙規模で考えると、我々の故郷は地球なのだ。それをミクロ化していくことで、日本が故郷になり、××県が故郷になり、○○市が故郷になり、同じ意味で三宅は彼らの故郷なのだと思う。
 だとすると単純にこれは視点の違いであり、冷静に考えれば、年中有毒ガスの警報が出る地域に住むという選択をすることの意味が、経済的なことを除けば、私には理解できない・・・・いや実は理解できるのでこの表現は正しくないが。
 ただ、三宅でなければ東京都という選択であれば、暮らしづらいだろうなというのは解る。そう、慣れていない土地での生活は暮らしがしづらいのだ。
 旅が楽しいのは、その土地に一時的に訪れるからだ。その土地の風習や、町内での決まり事があっても、それに縛られることはなく、外からその「変わった」部分を眺めることができる。そこに飛び込んで、住むとなると、必ずしも楽ではない。
 多分、三宅に帰る人たちは、それ以外のところで生活する方が「楽ではない」のだろうな、と思う。
 旅とは面白い物で、そこに住んだら、慣れ親しむまでに時間がかかって大変かも知れないのに、ちょっとの間滞在することが、むしろ日々の疲れを癒してくれたりするのだ。旅の効用は、短期間の非日常、だとしても、それほど極端な変化ではない非日常を経験することの面白さなのだと思う。

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