由比敬介のブログ
月日の経過
月日の経過

月日の経過

 6月27日、もう今年も半分終わろうとしている。
 毎年毎年、1年は早いと、どこかで言っているような気がする。1歳1歳年を取ると、徐々に時間の経過は早く感じられるものらしい。これは、考えるのではなく感じるものだから、致し方ない。重力が軽いと、時間の経過は遅くなるようだから、山の上に住めば、少しは麓よりもゆっくり時間を過ごせるのかも知れない。この点は相対性理論が保障してくれる。
 先日テレビで、誰だったか忘れたが、40代は本当にあっという間だった。と言っていた。一番速く過ぎた、と。その人が50代だったからで、60過ぎればきっと、50代が最も早いというかも知れない。
 人間が、もし健康で老いるということを知らなかった場合、いったい幾つくらいまで、生きることが嫌にならないのだろう?
 よくSFで、不死身に近い男が登場し、「死ねない辛さ」を訴えることがある。死ねないことが辛い理由はいくつかある。生きている間に親しい知人がいなくなる、周りがどんどん死んでいくのに自分だけ、等々。
 しかし、知人などというのは生きていても、どんどん入れ替わるものだ。特定の誰かが親友であったり、最愛の妻であったりするかも知れないが、それほどに親しくなれる可能性がある人物が、たまたま自分の周りにいたとしても、その人だけのはずはあるまい。長生きしていれば、何人でも出てくるはずだ。
 周りが死ぬのに、自分は死なないというのは例えば「グリーンマイル」のように、どんどん年老いていきながら生きながらえるという、長い老後というのは確かに辛いだろうが、例えば、人間の寿命が500年くらいだったらどうだろう?現在の80年くらいを500年かけて老いていくと考えたら。もちろん、単純に何倍かを計算しても意味はない。6倍生きるからと言って、小学校の卒業が72歳になるということではない。青年期が長かったり、壮年期が長いと言うことだ。そこから推し量れば、老年期も長いから、やはり辛いことになるのかも知れないが。
だがやはり、人生100年程度では短いなあ、と思うわけだ。別に長い老後が欲しいわけではなく、倍くらいのスパンで生きてみたいものだと思うのだ。どちらかというと、世の多くの人は、人生は長さではなく中身だ、と言ったりする。太く短くだ。
 たまにこういう質問がある。「あなたは太く短く生きる人生と、細く長く生きる人生のどちらがいいですか?」
 私はそういうときこう答える。
「太く永くだ!」

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