3か月半ぶりの書き込みである。
瀬尾佳美という青学の准教授(この准教授というのは、なぜ助教授じゃなくなったのだろう・・・最近の言葉の言い換えには、何とも興味がそそられる)が、先日の光市母子殺人事件の死刑判決後にブログで発した発言を期に、話題になっている。
この教授の発言に関する意見というのは、その多くが非難であり、基本的にはぼくも大筋でその意見に同調するので、敢えてここで、正面からそのことをわざわざ書くつもりはない。
あくまで参考のためにこの人の文章を引用の引用で掲載する。
繰り返すが私は死刑廃止論者ではない。麻原なんかさっさと首絞めたらいいと思っている。
だが、光市の事件に関しては死刑は重すぎるように思えてならない。犯人が少年だからだ。
私は少年に対する死刑には原則反対だ。
理由は日本では18歳になっても選挙権がないから。選挙権もないのに、義務だけあるのは気に入らない。
金の掛け金を何千万も横領している公務員がなんのお咎めもない一方で、いくら重大犯罪人だといっても子供を死刑にするのは私の「正義感」には合わない。
もちろん、だからといって何をしてもいい訳ではないが、国が死刑という形で犯す殺人には、熟慮が必要だと思うのである。
最低でも永山基準くらいをラインにしてほしいものだ。
永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ(まったくの個人的意見だが赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうので、傷害致死の可能性は捨てきれないと思っている)。
一審、二審の判断は、相場から言えば妥当なところではなかったろうか。
引用元
この人は、すでにWikipediaにまで項目があるし、今回の事件についてばかりではなく、これまでも多くの問題発言を繰り返し、シンパもいないわけではないようだ(詳細は知らないが)。
いずれにしても、大学で学生に何かを教えているわけで、教える内容の賛否はともかく(個人的にはとても「否」だが)、その文章を読んでいると、とても稚拙な感じがする。この場合、稚拙という表現が合っているのかは、自分自身疑問なのだが、大学の先生が書くにしては、ということだ。
この人、「リスク理論入門」というタイトルの本を出しているが、自信の身に降りかかるリスクをうまく回避できなかったようだ。
この後、青山学院への山のような直接抗議などに対して、謝罪や言い訳を言って、最も反発の強かった「幼児を0.5人と換算した」と見える場所についても、「傷害致死の可能性」を0.5としていると書いている。
この准教授は、例えば拉致被害者に対しても
「(拉致被害者は)私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います」
この引用はJ-CASTのニュースから
というような発言を以前にしているらしい。
これは、もって他山の石となすべき事なのだけれど、内容は別にしても、この表現方法はどうしてこうなるのだろう。
日本のブログ文化は、内容の善し悪しに関わらず、この表現という点において、とても自由で、危うい。
「不幸面してられるアンタ」という表現が、この場の書き手の心情を最もよく表しているとしても、この文章を不特定多数に公開する場合、どういう効果があるか、考えないで表現できる危うさが、そこに存在する。
書籍や雑誌は、編集者が、テレビも様々なフィルターが、多くの場合かかる。
しかしながらブログは、「日記」との狭間で、フィルター無しに直接的に伝わり、なおかつ、流行というか、それぞれに特有の文章的傾向がある。
2チャンネルの隆盛により、匿名で感情を吐露したり、あるいは補遺とを傷つけるような表現が日常的に、しかも安直に使用されることがよくある。
この瀬尾という人の場合は、根本的に何かが欠落しているような内容なので、そのことも相まって、読者感情を逆撫でする。
ただ、最近はやりの学校裏サイトやプロフなどでも、ニュースで見る限り(実際のサイトは見たことがないが)直接的に人を傷つける発言が、ある意味効果的に使われているし、それが日常語であるようにさえ思える。
福田首相が、後期高齢者医療者制度について、山口の補選で街頭演説するシーンが何度も流れたが、あの年齢で、首相までやっている人が、ああいう表現をして、選挙に勝てると思っているのが恐ろしい。
尤も、友人の友人がアルカイダの友達だったり、大臣をしてこの発言という人たちは多いし、年金記録の付け合わせが3月までに解決しなかったことに対しても、「誤解を与えた」という表現で謝罪をするような国家なのだから、表現についてはまず大人が正さなければいけないのかもしれない。
人間が社会生活を送らなくてはならないのは、もはややむを得ない事だし、自分と他人の関係を抜きにして、生きていくことは、基本的に不可能だ。
であれば、自由というのは、自己の自由であると同時に、他人の自由でもある。そのこと抜きには自由を語れない。
だからこそ、中国はチベット問題で世界から非難されているわけだ。・・・尤も、中国の「自由」は、自由主義国家の自由とは、意味が違うのかもしれないが。
日本には、幸か不幸か敬語が存在する。こんなものがなければ、もっと表現は平易なのかもしれない。
しかし、存在して、まだその威力があるうちは、それなりに使い分けが必要になろう。
ぼくは、朝青龍の尤も好きになれない点が、その敬語をほとんど使えない点にある。彼はモンゴル人なので、関係ないと言うほど、日本語は下手ではないし、新聞やテレビの記者相手に、丁寧語すら使おうとしない彼に、横綱としての資質のなさを感じる。
横綱はまず強くなければならないと言われるし、それももっともなことだが、相撲が品格の高さを失ってしまったら、プロレスと何ら変わらないとさえ思えてしまう。それならば、プロレスの方がずっとおもしろい。・・・いや、プロレスにはプロレスの品格があり、それは言葉遣いとはあまり関係ないのだ。
しかし相撲は違う。・・・ただ、そう感じない人が増えてくれば、それはそれで、仕方がないのかもしれない。
さて、言葉や文章というのは、斯様に人に対する心象を形成する。
例えば内容は別にして、丁寧な言葉で書かれた文章で、いやな思いをする人はあまりいないだろう。
しかし、正論であっても、攻撃的であったり、人を小馬鹿にしたような表現方法を採られると、反発したくなったり、いやな思いをするものではないだろうか。
どんなことでも一概には言えない。時には過激な表現手段が必要なこともあるかもしれない。
だがどんな場合でも、読む人の心象を大切にするという姿勢は、必要なはずだし、それは自ずと文章に表れる。
もちろん表現だけではない。意見の表出はある程度自由だが、人の考え方には流行や道徳的なことも含めて、ある程度の規範が、時代時代にある。それを超越して変化もあるには違いないが、そのバランスの中で我々は生きている。淘汰されていく考え方や行動がある一方、守られ、継続していくそれもあるのだ。
それらの基本にあるのが、自他のの関係性であることは間違いない。
表現手段も、表現内容も、実はそのバランスがとれる内側で使用される間は、きっと自由なのだ。
しばらくぶりに書くとどうも、こうしてまとまらない。・・・続けて書こう。