由比敬介のブログ
裁判員裁判における初の死刑求刑に対する結果
裁判員裁判における初の死刑求刑に対する結果

裁判員裁判における初の死刑求刑に対する結果

こういう話題をここで書くのはどうかと思ったのだが、いずれはいつか自分が裁判員になることもあるかもしれないし、そこで似たような事件を裁かなくてはいけない可能性というのは、誰にも等しくある。ということで少し書こうと思う。
似たような事件(罪のない人が、天から降ってわいたような状況で殺害される)事件というのは、身近にあるかというとそれほど無いのだが、報道を見ていれば少なくないことも確かである。こういう事件の裁判について、いつもだいたい取り上げられるのが、「永山基準」という話だ。永山は4人をピストルで殺害し、死刑になった。そしてこの後、まず取り上げられるのが殺害した人数だ。永山則夫は4人で、それ以上は死刑、それ以下であれば無期懲役。他にも、前科の有無や動機、残虐性、情状などいくつかのポイントがあり、その中には被害者家族の心情というのもある。それでもまず人数が多くの場合問題になる。
いずれにしても、今回の裁判は、それを基準とするなら無期懲役は妥当ということになる。
昨今の世論の論調は、だが、これとは違いむしろ人数ではなくこういった犯人には極刑を望む声の方が高い。そんな中で裁判員裁判がどう結論を出すかというのが話題の焦点であった。
そもそもここにはいくつかの問題点がある。まず死刑廃止論を信奉する人は少なくはないという事実。実際、世界ではどんどん死刑のない国が増えている。死刑、つまり人が人に死を宣告するのはおかしいということなのだろう。宗教的な背景もあるに違いないが、少なくとも世界の流れはそこにある。
次に、永山基準という判例主義の典型とも言える、一種見方によれば責任回避のような裁判のあり方にも問題があるだろう。これは法律ではなく、ただの過去の判例なので、これを基準に物事を考えるというのは、別の理由でマスコミ報道などを見て死刑にしてしまうのと同じくらい先入観に支配された考え方ではないだろうか。
死刑がいいか悪いか、必要か不必要かということは別に議論すべきだが、今の日本の法律は、殺人犯を裁くのに死刑か無期懲役という選択に迫られる。その間がない。確かに無期という言葉には終身刑も含むという意味もあるに違いない。だが現行法上10年経てば仮釈放から釈放の道がある以上、逆に言えば、懲役20年よりも軽い刑になる可能性も内包しているわけだ。
日本は今、凶悪犯罪の裁判に対し、こういう曖昧さの中で判決を出さなくてはならないのだ。
死刑を廃止するかしないのかという論点とは別に、死刑に継ぐ刑はこれでいいのかという議論も、現状の法規の下では行われる必要が、これまでもあったし、今もある。
個人的な見解とすれば、殺害した人数で死刑が決まるというのはどうもおかしいという気がしている。また、「反省」や「更正」という言葉は、こと今回のような凶悪殺人事件に関しては、入る余地など無いとも思っている。他人を殺した人間が、反省しようが後悔しようが(間違えないでいただきたいのは全ての殺人については想定していない)、更正とか第二の人生など、あっていいはずがない。なぜなら彼(あるいは彼女)は、一人あるいは複数の人生を奪ったからだ。ここは同害報復の古い考え方に共感する。
だが同時に、人が人に死を与える死刑ということが、必ずしも正しいとも思っていない。なぜなら、それによって死者が再びこの世に生を受けることがないからだ。
そういう意味では「終身刑」という、二度と出られない監獄の中の生活が、妥当な選択肢なのかなとも思う。

裁判員だって、終身刑なら、巷間いわれているような死刑に対する重い荷を背負ってその後の人生を送る必要もそれほどない気がするからだ。
こういう中で、法を志していない人間が、死刑判決を迫られる制度というのがいいのか悪いのか、考えてみるべきだろう。
でも、ごく自分の身近な人間が、今回のような事件にあったとしたら、やはり今回の判決には父親と同じことを言ったに違いない。そして、被告の死刑判決を望み、控訴もするだろう。でもそれが普通の、あるいは被害者自身が持つ心情ではないだろうか。聞くことは叶わないが。

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