由比敬介のブログ
声

「声」というプーランクのオペラもあるが、その話ではない。
 人間の声というのは一つの楽器だと思うし、しかも楽器の中でも最も奥深く、幅広いものだと思う。他の楽器が声に比べて落ちるということではなく、例えば、人間の声のみが、基本的には有機質の楽器なのだという意味だ。人間の声は人間が作り上げたものではなく、自然が醸造したものだからだ。
 歌というのは、概ね誰でも歌う。歌手というのはある意味専門職だが、他の専門職に比べると、(うまい下手は別にして)誰でもできることをやっているのだ。料理などに近いかも知れない。家だって誰でも建てることができると思うかも知れないが、実はできない。
 しかし職業歌手というものが昔から存在し、しかも多くのファンや賞賛を勝ち取ると言うところに、本当はスポーツや料理と同じ側面がある。修練もあるが、実はこれは一つの才能なのだ。
 サラリーマンがよく、「君がいなくなったら誰がこの仕事をやるのだ、困る。辞めないでくれたまえ」みたいなことを言われて会社を引き留められたりするが、案外後釜はいくらでもいる。意外と困らない。いや、細かいことを言わなければ、歌手だってスポーツ選手だって、代わりはいるのだ。だがこの場合はサラリーマンのそれとはちょっと違う。
 比較的オンリー・ワンなのがこの種の才能と感性が関わる分野の職業だ。この人の声が聴きたかったり、この人のプレイが見たかったり、その個人に密接に能力が結びついているのだ。
 
 私はポップスもクラシックも聴く。どちらの声楽も大好きだ(ポップスの場合声楽とは言わないが)。この二つの最大の違いは、語弊があることを恐れずに言えば、一生懸命勉強しなくてはなれないかどうかという点にあると思う。もちろん、ポップスの歌手も勉強しているし、天才声楽家は勉強とは別のところで奇跡的な声を持っている。黄金のトランペットと言われたデル・モナコや伝説のマリア・カラスを持ち出すまでもなく、持って生まれたもので勝負している以上、その最大の魅力はテクニックよりもむしろ、声の美しさにこそある。この美しさとは、例えば、ルイ・アームストロングはあの濁声こそが美しいのだという文脈が許される美しさだ。単純に透明感とか、伸びとか、そういうことではない。
 演歌歌手は総じて歌がうまい。ポピュラー歌手に比べると、不思議としっかり歌えている人が多いように思う。ところがそれでは皆売れているかというと、そうでもない。これは演歌という世界が、没個性になりがちだという点にあると思う。そしてそれはクラシックにも共通することだ。こういう言い方をすると、演歌やクラシックの歌手、あるいはファンから怒られそうだが、発声や、歌唱方法に一定の制限がある両ジャンルは、その点制限が全くない他のジャンルの歌に比べて、没個性的になるのはやむを得ないと思う。
 もちろん、その世界の中で、個性的な歌手や歌い方、声があるのは当然のことで、それがなければ、歌手は今の100分の1の数でもこと足りるだろう。
 私は、この没個性的な制限の中でこそ勝負をかけるのがこの両ジャンル、分けてもクラシックであると思うし、どちらかというと個性一発勝負なのが他のジャンルなのだと思う。
 これは例えば文学で言えば、俳句や短歌、あるいは詩といった韻文の世界と、小説やエッセイなどの違いと同じように感じる。得てして、芸術と大衆文化の違いのように捉えられがちだが、その基軸は私は違うと思う。もちろん、これはとらえ方の問題なので、個人が、自分で定義して分けている分には文句を言う筋合いはないが、規定された世界での個性や美しさと、自由な中での技術的な成熟度や、ユニークさ、これが大きく分けて二つの歌の世界だと私は思っている。
 だからこそ、演奏解釈の違いはあれ、クラシックは(基本的には)音符通りに歌うのであり、ポピュラー音楽は、ライブで自由に演奏できるのだ。どちらがいいかは好みだが、私は相互の世界で相互のやり方をやっているのをちょっと観たい気がする。
 カデンツァだらけの声楽コンサートや、CDそのままのロック・コンサート(これは意外と難しいのだ)などだ。
 レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジは「アキレス最後の闘い(Achilles Last Stand)」という曲のレコーディングがあまりに完璧にいったので、もうこんな演奏はできないと言ったという話を読んだことがある。これは、テンポとか、リズムとかいうことではない。ライブで同じメロディーラインを弾いていないからだ。クラシックではあまりあり得ない。超絶技巧だって引きこなしてナンボだ。
 この辺りの評価する側の甘さもクラシックとポピュラーを分けているかな。
 なんだか声の話を書こうと思って、音楽ジャンルの話になってしまった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です