セレモニー。すなわち式典とか儀式のことだが、MCなどというと、最近はテレビなどの司会までMaster of ceremoniesの部類に入るらしい。また、よく葬儀屋さんにセレモニーや、それに近い名前を冠したところがある。あまり結婚式などの主催をするところでセレモニーに近い名前を使っているところは見たことがない(あるかも知れないが)。
試しに検索エンジンでセレモニーと調べてみるといい。ほとんどが葬儀屋だ。
さて、私は一般的に言うところのセレモニーが嫌いだ。その多くは無駄だと思っている。ただ誤解がないように言い添えておくが、無駄=必要ないではない。無駄でも必要な物はあると思っているからだ。また、私が一般的にと断ったのは、この中に入学式とか卒業式、成人式とか、テープカットとか、多くの式典すべてを含んでいるからだ。
世の中にはこういったセレモニー好きの人も多くいるので、そういう人たちには顰蹙ものの記事かも知れないが、逆に、こう思っている人間もいるのだという一つの例にはなろう。
極端なことを言えば、セレモニーはすべて宗教儀式の延長みたいな物だと思っている。つまりは、目に見えぬ何かに、何かを捧げる、あるいは訴えるというのがセレモニーの目的であり、その目に見えない何かとは、多くの場合神様に他ならない。もちろん多くはその原形をとどめていなかったり、そもそも宗教的な意味合いを既に持たない物がほとんどかも知れないが、いわば形骸化した宗教儀式のような側面を持っていることは確かだ。
私は宗教を否定しないし、それほど不信心でもない。「あなたは神を信じますかぁ」と訊かれれば、その文脈で問われる神は信じてはいないと答えるしかないが、では神はいないと思っているのかと問われれば、そうとも思っていない。だって、解らないでしょう。もしいないとしたら、いないことを証明するほど難しいことはないし、いるとしても、見たことはない。声を聞いたこともない。言ってみれば、いると証言する人がいると言うこと、そしてその人達が必ずしも信じるに足りない人たちではないと言うことくらいが解っているので、そういう意味では、情的にも少しは信じている方へ傾いていた方がいいかもしれない程度だ。そういう意味では仏教はちょっと違うが。
閑話休題。
さて、そういった儀式の内、思いつくままにどうか考えてみると、例えば七五三。これなどどんな意味があるのか、実はいまだに知らない。いや、聞いたことはあるが右の耳から左の耳、忘れてしまった。これなどは、親が子供をかわいがりたい以上の意味を持たないし、まあ、あってもなくてもいいかな。
入学式。入学説明会というのは、入学に当たって必要なことを知らしめるという意味では必要かも知れないが、国旗を揚げたり、国歌を歌ったり、校長先生の退屈な訓辞を聞いたり、非常に虚飾が多く、しかも等の児童や生徒はあまり楽しんでいないケースも多い。昔から自由参加にしてくれたらいいのにといつも思っていた。当然参加しないが。卒業式も同じだ。意味のある人にとっては意味があるかも知れないが、私にとっては、明日から学校へ来なくても良くなる日にしか過ぎない。それによって友人がいなくなるわけでもない。
成人式。これなど参加していないので、ただの休日だ。法的にはいろいろな権利が与えられるが、それ以上の意味はない。免許が取れたり、アダルトビデオが見られるようになる18歳がなぜ成人ではないのかもよく分からない。もっと言えば、明日から煙草も酒もOKの境というのが、肉体的に、生理学的に、どのような根拠があるのかも解らないし、19歳と11ヶ月だと身体に悪いものは、30歳になったって身体には悪い。しかも、今時の子供が、その年まで酒も飲まない煙草も吸わないなどと言うことはないし(当然そういう人や、私のようにいまだに1本も煙草を吸ったことがない人間もいるが)、大人と子供の境を決めて、それを祝うなどというのは、早死にする人が多く、ようやく二十歳になったねと喜んでいる時代の遺物に過ぎないとさえ思う。
結婚式。結婚もしたことがないやつが何を言うと言われそうだが、こればかりは、葬儀と一緒で、その当人が存在し、当人がやりたいというなら無駄でもないし、無意味でもない。それはいいことだ。葬儀の場合は当人というのは死者ではなく遺族のことだ。最近では結婚式を挙げないというカップルも大分増えてきたようだし、それに異を唱える家族や親戚も減ってきているようだが、地方ではそうでもないらしい。
そう、よく考えてみると、私は儀式自体が嫌いなわけではないのかも知れないと思い出した。
それが伝統に根ざし、昔からそうだからという根拠のない理由で、ありがたく奉じられていることへの反発なのだ。
例えばよく言われるのに、名古屋の結婚は大変だと言われる。今時どのくらいの比率で、ドラマなどで見る豪勢な嫁入り道具や、結婚式があるのか知らないが、明らかにそれは、土着の伝統に根ざしている。私は中京人ではないので、ほっとしているが、これらは本当に無駄だと思う。でも、繰り返し言うが、必要ないわけではない。必要としている人がこの世にいる以上、どんなに無駄であっても、それは必要なのだ。
政治家のパーティーだって、考え方によれば非常に無駄だと思うが、当人達にとって見れば、重要な資金集めなのだ。
あるいは、竣工記念とか、開通記念とか、オープン記念といった行事は、「区切り」だというだろう。広報的な意味を言うこともあろう。なので、やはり私は無駄だと思うが、必要なのだ。
では、それだけ必要なのだから、無駄ではないだろうという意見も当然あるに違いない。私が無駄だという意味は、例えば開通記念にそこに紅白のテープを貼って、どこかのお偉いさんを呼んだりしてテープカットをする。そんなことの意味がどうにも解せないというだけだ。
金八先生などで、卒業式にクラス全員の心が一つになって・・・みたいなシーンがあったりするが、そもそも卒業式などに、そんなシーンはない。少なくとも私は経験したこともないし、経験したくもない。むしろおぞましい。それはある意味洗脳に近いからだ。ま、それは極端だが、テープカットと、この儀式は大同小異だ。
ただくれぐれも誤解のないように。成人式を除けば、そのすべてに私は参加しているし、友人の結婚式にも参加させてもらい、十分に良かったと思っている。父の葬儀も、父自身が喜んでいるのかどうか、それは解らないし、やはり葬儀というのは残された者のための儀式であるから、悪い葬儀ではなかったと思っている。ただ、あれらの儀式がどこでどう決まったか知らないが、なぜこうするのか?という点が最後まで理解できなかった。この辺りは非常事務的で、むしろ死者を弔うと言うことには反して、無駄だなと、今でも思っている。ただ恐らく父は、そういうところは厳格な人だったから、こんなことをここで書いている私を怒っているに違いないとは思う。
この世からすべて無駄を省いたらいい世の中になるなどと、私は思っているわけではない。ただ、何時までもそれらのことが変わらずに、伝統という衣を着て、なぜ延々と続くかということに、常々疑問を感じている、そのことを、言いたかっただけだ。
卑近なことを言えば、どうして家を借りる時、客側である借り主が、「礼金」を払うのかという、商慣例上の不思議とも、意味は似ている。おかしいでしょ(これは、家を貸してくれてありがとうという感謝とは別ですよ)。