オリンピックが毎日テレビで放映され、日本は今、メダル獲得数で3位に位置している。初日から柔道で2つ、翌日も一つ、さらに北島で都合4つの金メダル。そして昨日の横沢の銀。このままで行けば、ここ数年来のメダルラッシュになるのは間違いない。
ただその影で、予選敗退のサッカー男子、苦戦を続けるソフトボールや女子バレーボール、また、柔道も3日目はメダルを取れなかった。
シドニーで銅だった日下部は敗者復活でも負けて大泣きしていた。昨日、決勝で敗れた横沢の、負けた後の呆然とした姿も印象的だったが、今日の日下部の臆面もない号泣は、あの競技に賭けていた彼女の悔しさが、画面を超えて見る側にひしひしと伝わってきた。
かつてこういった競技をほとんどといってしてこなかったし、スポーツでは、もとより勝つこととは無縁だったので、真の意味でのあの涙の意義は僕には分からないかもしれない。
人は戦う生き物だ。良かれ悪しかれ戦うことによって歴史を生きてきたし、今後も戦うこと無しに未来を築いていくことはできないに違いない。戦うときには人はエゴイストだ。勝利を人に譲ろうとはしない。それが腕相撲であれ、国と国との戦争であれ、突き詰めてみると戦いは、エゴイスティックなこちらと向こう側の対立の構図以外のなにものでもない。
ではなぜ、オリンピックで戦うことに意味があって、戦争はそうではないのだろうか?
いや、ごく単純に誤解を恐れずにいうならば、戦争だって意義はあるのだ。戦争がなければ人類文明はここまで進歩しなかったに違いないし、今の日本の我々の生活だって、実はいくつかの戦争をくぐり抜けるという歴史的現実の上に成り立っているのだ。物事の因果や因縁というのはいずれにしたって、過去から未来に流れる時間の中で、否応なく全てを関連づけている。
表現を変えれば、オリンピックは良くて、戦争が悪いことなのはなぜかと言うことになる。ことは、単純に人が死ぬから良くて人が死なないからいいということでもなく、もっと根本的に戦いには2種類乃至それ以上の異なった性質を持つものがあるからというべきである。
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