由比敬介のブログ
歩き煙草
歩き煙草

歩き煙草

 私が住んでいる荻窪は駅付近が、杉並区の条例で歩き煙草禁止区域に指定されている。駅の南側は、バス通りの拡張や、福祉センターの新築などで大分様変わりしたが、同時に整備された歩道には、禁煙マークが所々に印刷されている。
 歩き煙草で最近よく言われるのは、手でぶらぶら持っているのが子供の目線である危険のことである。
 確かに、煙草ばかりが社会の迷惑ではない。法律で禁じられていない以上、煙草を悪者扱いするのは喫煙者に対する差別だ、という意見があったとしても必ずしも間違ってはいない。煙草が健康を害するのは本人の問題でもある。副流煙が不愉快だったり、他人の健康を害する恐れがあるとしても、車の排気ガスや、様々な環境汚染物質と比べてどの程度だろうか?
 こんな反論も、あるいはあるかも知れない。
 昔ユートピアという漫才師が煙草のコントをやっていた。
教師「オタクのお子さんは学校で煙草を吸っているんですよ」
親「今時誰でも吸っているでしょう。先生だって昔吸っていたんじゃないですか?」
教師「私は二十歳になるまで吸ったことはありませんよ」
親「先生は二十歳になっても煙草が体に悪いって解らなかったんですか!?」
 コントではないが、多くの親が高校時代に煙草を吸った経験を持つであろうし、煙草が青少年だけの体を蝕むわけではない。青少年に悪いものは大人にだって悪い。煙草を吸う人の多くも、体に悪いことを認識した上で吸っているのだ。寝たばこだって危険だと解っていても、自分は大丈夫だと思っているのだ。・・・これは飲酒運転と同じだ。
 歩き煙草も実は同じで、千代田区のように職員が取り締まりでもすれば別だが、地面の禁煙マークなど見て見ぬふりだ。これは歩道ばかりではない。駅でもそうだ。若いやつがそうだとか、オヤジがそうだとか、カテゴライズするのは意味がない。そういう人間がいると言うことだ。
 私は、学校の卒業式で国家掲揚を義務づけたり、最近ではどうだか知らないが、学校でパーマをかけていたり化粧をしていたりするのを教師が咎めるのは教育ではないと思っている。化粧などというのはいずれ社会に出て必要なのであれば、むしろ学校で授業として教えたっていいようなものだ。と、話がそれたが、こういった思想信条に対する決めごとと、歩き煙草をしないということは、全く次元が違っていて、十分に条例としての価値があると、私は思っている。
 私は生まれてこの方煙草を吸ったことがないし、今後も吸う予定がないので、特に煙草の煙には敏感で、不愉快に感じることも多い。せめて、禁煙マークのところでは吸わないという感覚は常識だと思ってはいけないだろうか?
 確かにこうなってからは減ったし、多くの喫煙者がそういう決まりを守っていることは承知の上で、敢えてそれができない人たちに、このことは些細でも下らないことでもないと言うことをちょっとだけ言ってみたかった。・・・むう、気が弱い。

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