純文学という言葉を広辞苑で引くと2つの意味が載っている。
①広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。
②大衆文学に対して、純粋な芸術を指向する文芸作品、殊に小説。
一般的に使われる場合の純文学は②で、エンターテインメントに対する対語のような形で使われる。中には「読者に媚びず」という表現を使った辞書もある。
これを恣意的に解釈すると、面白くなくても作者が芸術性を重んじて書いたものが純文学。大衆的であることは、その芸術的価値を貶める。とも取ることができる。
現に芥川賞は純文学の新人賞。直木賞は大衆文学賞と、いわゆる文芸の2大賞は棲み分けができている。ところが最近では、芥川賞を見ていても、大分読者を意識した内容であるように思える。
そもそも、大衆的であることが芸術性の対極にあるとしたら、芸術っていったい何だろう?
確かにモーツァルトの音楽は、ら必ずしも大衆のために書かれたものではない。現代では「芸術」のレッテルを貼っているが、そもそも王様や貴族のために書いていたので、時代が下れば、クラシックだって大衆のためにこそ書かれてきたのである。
絵だってそうだ。多くの画家は売れなくては生活ができない。売れるということは、大衆の支持をいかに集めるかで、実は文学だってそうだ。
大体、書物を書いて、それが読まれようがそうでなかろうがどちらでもいい等という作家は、趣味だ。読んでもらってナンボだ。
実際文学的評価は、多くの人からそれを受けることで高まる。言ってみれば大衆化されることだ。
私は昔から、純文学というレッテルが大嫌いだ。ミステリやSFというのは文学の1ジャンルだが、明らかに純文学はジャンルではない。「純」という接頭辞は、そのカテゴリーの意味を表徴していない。
それのせいもあって、国語と、国文学の歴史は非常に嫌いだった。
文学の最も大切な基準は「面白い」かどうかだ。もちろん「面白い」の中には「感動」や「共感」と言った、読後感の素晴らしさの多くがこもっている。しかし断じて、芸術性なんかじゃない。これは、音楽でも絵画でも、漫画でもアニメでも、基本的にはそうだと思っている。
もちろん、沢山売れればそうかというとそうでもない。要は売れた後だし、長い目で見ることも肝要だ。
そういう意味では、国語の授業で教えられた多くの小説は、ある程度は優れた文学だと思うが、実はそんなものは時代とともに大きく変わるので、「残る」というのは大変なことだ。
もちろん、残るだけが必要ではない。その時代時代の中で指示されることが大切だ。
いずれにしても、大衆小説という括りで純文学と対峙される作品の方が、ずっと重要な気がしている。