本日、TBSで日本語決定戦という番組をやった。日本語は改めて難しいと思った反面、何となく国語の試験を思い出して歯痒い思いもした。
日本人の平均は52点ということだが、ある意味、さもありなんという問題ではあった。
漢字に関しては、「意味から類推すれば正しい解答に結びつく」と解っていても、何となく別の方を選んでしまったり、まったく解らないといったものも結構あった。あるいは間違えて覚えていた物など。
「確信犯」という言葉の意味など、実はこのクイズで始めて知った。
だが、例えば昨年のように「今年は台風の当たり年だ」等という表現を、間違いなくニュースなどで聞いていると、それが本来的には違うと言われても、簡単に納得はできない。
そういう意味で、漢字はともかく、意味を判断する言葉に関しては、いくつか釈然としないものはあった。
問題と解答はこちらに
そこでいくつか辞書を引いてみた。
「揚げ足を取る」・・・いくつかの辞書で「上げ足」も載っている。
「応待」・・・人をもてなすという意味がある
「老舗」・・・ろうほとも読む
「間髪を入れず」・・・かんぱつと読んで、間髪(はつ)を入れず」の俗語的な言い方。
「青田刈り」・・・これも青田買いの意味で使う。
「足元をすくう」・・・ジーニアスの英和辞典にはこの表現も載っている。
「さいさきが悪い」・・・広辞苑でさえこの用例は載っている。
「当たり年」・・・回数の多い年という意味が載っている辞書もある
「辛党」・・・意味は知っているが、甘党の反対が酒好きというのは絶対におかしい。
などなど・・・・・
言葉の意味や表現方法は時代とともに変わる。微妙な言い回しや、意味の変遷はやむを得ないような気がする。
もちろん、言葉はコミュニケーションツールなので、交わす双方に共通認識が求められる。例えば「憮然とした表情」等という表現は、むっつりした表情のように取られるケースが増えているが、実際はしょげているとか防戦としているという意味だ。この2つは意味的には全く違うから、前者のような意味が大きくなったとすると、「いとおかし」等よりも尚おかしなことになってくる。
まして、これだけ情報網が発達している中では、かつての古文と現代文のような違いを、それほど生まないようにすることもできるに違いない。
表現や意味の維持と、新たな表現や意味の兼ね合いというのは、「時化」や「灰汁」、「態と」を読めないよりも、より重要なことだ。
難しい・・・
昨晩は私用で厚木まで出かけてヘロヘロになって(朝も帰りも渋滞)帰宅して、夕飯を食べながら家族と見てました。
写真用語で「被写界深度」と言う言葉があります。同時に「被写体」と言う言葉も。
前者は絞りの度合いで変化する(見かけの)ピントの合っている範囲のこと。つまり絞りが開けられれば相対的に早いスピードのシャッターを切ることが出来ますが=動きが止まった絵、ごくわずかな距離の範囲しかピントが合いませんので、他はぼけて見えます。一方絞りを絞ると光量が減りますからそれだけ長い時間をかけて光量を獲得しないと適正な露出が得られなくなりますが、ピントがあって見える範囲が広くなるのです。
後者は文字通り写される対象のことです。
問題はこれらの言葉が似ていて、かつ似たような領域のため、「被写体深度」というあり得ない言葉が登場してしまいます。
しかも間違った認識がないまま、それを指摘する人も無く使う人が増え、やがてカメラメーカーまでが正しい指摘をするどころか、「被写体深度とも言う」と定義までしてしまう始末。
「新たな表現や意味」と言うのは、やはり誤用とそれを指摘できる人が少なくなってしまっていて、今更~という悪循環が作り出した社会現象であり文化の変異なんでしょうね。