私は生まれてこの方煙草を吸ったことがない。だから、自分で吸うという点に関して、煙草が好きか嫌いかという場合は、どちらとも答えられない。ただ、他人の煙草は、その分、不快だ。などと書いて、ここを読む友人の気分を害してどうすると言うことだが、その伝で言うと、おたくの庭の気がうちの庭にはみ出しているので切ったというのが違法であるように、喫煙者には喫煙者の権利があるはずだ。
ブータンで、煙草の販売が完全禁止になったという。違反すると営業停止になり、罰金まで取られるそうだ。ニューヨークなどでも、一般客が入る店では全面禁煙だ。喫煙者の方には非常に住みづらい世の中になりつつあるようだ。
先日JTでも、煙草のパッケージに「肺ガンになるぞ!」と脅し文句を大きく入れるようになるという。
ところで、これらの規制で、面白いのはやはり煙草は麻薬や覚醒剤と違うので、「吸ってはいけない」という法律や条令がないと言うことだ。これは、喫煙が違法だということではなく、ここでは吸ってはいけない、自分で楽しむ分にはいい、と言うことだ。ブータンでも、海外から買ってきて自分で吸うのは違法ではない。
煙草の場合難しいのは副流煙という存在だ。つまり、煙草は吸った本人ではなく周りの人に害を及ぼすという点だ。煙草と肺ガンの因果関係は今では常識のようだが、だからといって喫煙者が100%肺ガンになるわけでもない。
私の父は今年亡くなったが、ヘビースモーカーだった。が肺ガンで死んだわけではない。とはいえ、実は肺をやられていなかったわけではなく、肺気腫という病気であった。肺の病気と言って、肺ガンだけが怖いわけでもなく、それらの病気の原因が、多く煙草に負うているというのも事実なのだ。
個人的には、規制が強くなるのは歓迎する。だが、麻薬などのように完璧に違法とされるまでは、やはり煙草はマナーの問題なのかも知れない。
最近テレビで「マナーの猫」というコーナーを見た。テーブルマナーや、祝儀袋の書き方など、様々な決まり事(誰が決めたのか、どの程度の意味があるのか極めて不明だが)を、こうだと教えてくれる。これらのマナーのうち、それが伝統的にマナーであるからという理由で、その作法をその通りにしなくてはいけないという主張には、私は馬鹿らしくてつきあっていられないし、そんな物時代とともに毎年更新したっていいくらいのものだ。ただ、マナーの基本は、自分が対する相手、あるいは周囲の第三者に対して、どういう姿勢で対するかという問題なのであって、祝儀を2万円にするのは割り切れるからよろしくないなどというのは下らない問題だ。3万円は2で割れないとでも言うのか?
それはともかく、つまりは煙草のマナーというのは、要するに周囲への慮りであり、それはしごく日常的な人との関係をいかにしていくかということに他ならない。都内の多くの駅のホームが禁煙になってしばらく経つが、相変わらず気にせず吸っている人はいる。これは法の問題ではなく、生き方の問題なのだ。
この世は60億もの人間が暮らしている。そのすべての人が同じ考えを共有することなど不可能で、それは今日何を食べたいから、イラクへ爆弾を落とすか否かまで、非常に階層的に食い違いが存在している。個人レベルで帰結することはともかく、集団としての規制が必要なので法がある。であれば、法が規定していることは取り敢えず遵守する、あるいは遵守する努力をすることが必要で、それは道徳やマナーとは別の問題である。
喫煙が法の問題にならないように、喫煙者が煙草の吸い方や場所を守っている限り、規制が強くなることはないはずだが、どんどん強くなると言うことは、現状の法では理想的な状況に近づけることが難しいと言うことである。
私自身、マリファナと煙草の違いが分からない。どちらも葉っぱを紙に巻いて火を付けて吸っているのに、片方が適法で片方が違法である。煙草に習慣性がないなどと今更誰も言わないだろう。煙草が一切精神的に作用しないと言うこともない。
これはあたかも、競馬、競輪、競艇、パチンコ、宝くじは違法ではないが、カジノは違法だというのと実はよく似ている。競馬がスポーツだとしたら、それは騎手にとってだけだ。馬券を売らないで単純に競馬だけを振興させることができないとすれば、同じ理由で、プロ野球も野球券を売れば、赤字解消に繋がるはずだ。
人は、常に自己の都合で物事の判断をする。これは必ずしも悪い意味ではなく、最終的な判断は個人に帰結するのはやむを得ない。とはいえ、その際に、そうでない他人がいることを考えなくてはいけない。
煙草を規制することは大賛成だし、麻薬と同じように違法にしてしまえば、もっとうれしい。しかし、この世の中には煙草が楽しくて仕方がない人もたくさんいるのだ。その全員が、害悪をまき散らしているわけではない。互いが譲り合い、共存できるための方策を考えていくのが、最も(少なくともまだ今は)いいことなのだと思う。
自分の父親が亡くなる前に、病床にいる時、一服させてやりたかった、今ではそんな風に思っている。