UFJ銀行で小型カメラがATMに仕掛けられていたり、岐阜の十六銀行では、カードの挿入口にスキミングの機械が仕掛けられたりと、あの手この手の犯罪が横行している。千葉銀行のオンラインの修正プログラムなどもそうだ。
一頃、オレオレ詐欺が横行していたが、様々な手段で、一般人から金を巻き上げようとする彼らのエネルギーは、どこかもっと他に使えないものなのだろうか?
いずれにしても、人を騙して金を振り込ませたり、暗証番号などを盗んで金を引き出したり、クレジットカードで勝手に高額商品を購入したり、手口をあげつらったらきりがない。
しかしこれらの犯罪は、捕まっても、それほど大きな罪にならないらしい。せいぜい何年か刑務所に入ればいいようだ。
確かに、人を殺しても無期の手前は15年。飲酒運転で死亡事故を起こしても、必ずしも危険運転致死罪にはならないようだから、金を盗んだくらいではそれほどの罪にはならないのかも知れない。
一生懸命こつこつ貯めたお金を取られたお年寄りなどは、命あっての物種とはいえ、今後の生活を考えたとき、目の前が真っ暗になる人も少なくないだろう。場合によってはそれが自殺に追い込む場合もあるだろう。
どんな事件でも、罪を償い、構成という道は残されている。
しかし、罪を償うというのはどういう事なのだろうか?
罪とは果たして何らかの形で償えるものなのだろうか?
過失であれば、償いは被害者をある程度慰安することも可能だろう。だが、意図的な犯罪は、その罪の軽重にかかわらず、償いというのは、あくまで加害者の立場からのもので、被害者を救済するわけではない。
拉致問題が解決したとして、全ての拉致被害者が帰国できても、彼らの人生が戻らないように、被害者と加害者の立場というのは本質的に違う。多かれ少なかれ、被害者には一部泣き寝入りするしかないのだ。
端的な例は、殺人事件の被害者だ。何をどうもってしても、その命は復さない。
犯罪というのは、単純に加害者と被害者と二分できなかったり、よく推理小説でお為ごかしのように持ち出される復讐というテーマが持つ、非常に判断に困るものも多くある。
だが殺人事件を持ち出すまでもなく、ネット上の詐欺や、最初に書いた様々の窃盗事件は、逆に殺人事件ほどにことが重くないだけに、その罪の意識も非常に希薄だったりする可能性が大きい。
結果的に捕まっても、数年でまた出てくる。再犯率がどの程度かは解らないが、これだけそういった犯罪が増えている背景には、罪の意識の軽さと、罰の軽さも原因しているように感じる。
詐欺や窃盗でも10年、20年と刑務所に入れられると解れば、犯罪は少し減らないだろうか?
そういう方法が最もいい解決法ではないかも知れないが、昨今の状況は、なにかこう、人の世の殺伐とした儚さを非常に感じさせるのだ。