モーツァルトの生誕250年だという。まさに今日がその誕生日だ。250年前の暦がどうなのかは知らないが、そう言うことらしい。
モーツァルトというと、バッハやベートーヴェンとともに、ほとんどの人が名前を知っている。しかも映画「アマデウス」のおかげで、バッハやベートーヴェンなどとは違い、姓だけでなく名まで有名だ。
しかし実際に曲をどの程度知っているかということになると、おそらくは、驚くほど知られていないと思う。少なくともクラシック好きの人が、モーツァルト程度は常識だろうと思っている、10分の1も知らないに違いない。
モーツァルトの書いた曲を上げよといわれたときに、ベートーヴェンの「運命」や「第九」ほどに、曲名が知られているわけではない。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」という名前を聞いたことはあっても、恐らくモーツァルトと結びつかない人は多い。
テレビなどでかかるレクイエムの回数は、最近ではモーツァルトよりもヴェルディの方が多そうだ。
ジュピターという名前を聞いたときに、モーツァルトの交響曲を思い浮かべる人よりも、ホルストの「惑星」を思い浮かべる人の方が多いかも知れない。もちろん、平原綾香のおかげだ。
「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」等という著名なオペラは、どこかで名前を聞いたことがあるかも知れないが、下手をするとそれがオペラのタイトルであることを解らない人も多い。
最近ではクラシックのCDがよく売れているという。確かに昔に比べると、クラシックのハードルは低くなり、多くの人が聴くようになった。中でもモーツァルトは、簡単で難しく、聴きやすいので、ベートーヴェンなどよりは遙かに入りやすいだろう。
だが、CD等で、例えばモーツアルトの交響曲集を買ったとしよう。1枚聴き通し、曲当てクイズを行っても、簡単には答えられない。極論すれば、どれを聴いても似ているからだ。
たとえモーツァルトでも、日本語の歌詞が付いたJ-POPとは比べものにならないくらい、覚えるのは大変だ。
さて、そんなモーツアルトの音楽が、200年以上も前に生まれたにもかかわらず、いまだに多くの人に聴かれ、楽しまれているというのは驚嘆に値する。
人類の歴史から考えると、クラシックの歴史は思うより遙かに短い。しかも、20世紀を10年~20年くらい過ぎると、それから先は余りよく分からない音楽が続くので、実質200年間の音楽に近いとも言える。
もちろん、ルネサンスとかまで広げる事は可能だが、それでもせいぜい300年だ。
ただ、200年とはいえ、その200年を朽ちることなく、人々に感動を与え、聞き続けられているというのは、そこに何かがあるからに違いない。
最近の音楽が朽ちていくというのではない。ただ実際問題、最近の音楽の寿命はそれほど長くないものが多いだろう。それはある意味、ポピュラーの持つ宿命のようなものかも知れない。ビートルズだって、100年後にどれほど聴かれているかは疑問だ。
もちろん、どちらが優れているかということではなく、単純に、それだけの長きにわたり聴かれ続けている同じ音楽ということの凄さを言いたいだけだ。
ジョン・レノンの曲は、個人的にはどこがいいのかよく分からないが、ジョンが歌ってこそのあの気の抜けた感が、多くの人に感銘を与える原動力のような気がする。他の人が歌っても、いい曲はいい曲だが、何かが違うと言われるのではないか。
ところがモーツァルトなどは、これまでの歴史の中で、数えきれぬほどの演奏者が、同じ曲を演奏してきたのだ。そしてその都度、その演奏に賛否が唱えられ、いいに付け悪いに付け評価され、現代に到っている。
そもそも同じ音楽だが別のものなのだ。ジョン・レノンで言えば、スタジオ録音とライヴ、どこどこでのライヴと、何とか音楽祭のライヴでは違う、ある意味それと似ている。
ただモーツァルトの凄さとは、多くの作曲家、そして演奏家が、年を降るにつれ回帰し、その深みにはまっていく音楽であるという点だ。それは、ベートーヴェンも、ブラームスも、ワーグナーも、マーラーもあるいはバッハでさえ、持たぬ何かなのだ。
ハイドンの曲は、時折モーツァルトと似た響きをする。しかし、ハイドンは、モーツァルトが持つ、ある意味神々しさのようなものは持たない。実は私もモーツァルトのそういう側面はまだよく分からない。
でも、飽きない曲という側面をモーツアルトの曲は持っていて、これは単純に、心地いいとか、聴きやすいというのとは別のような気がする。
何より生誕250年、若くして亡くなった作曲家だが、今も尚、この時代にその音楽が生きている。すごいことではないか。