由比敬介のブログ
金髪
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金髪

 秋田市の学校法人「秋田経済法科大」が、茶髪とピアスを禁止する規則を作るそうだ。私立学校のようだから、そういう決めごとをすること自体はとやかく言うことではないし、現在の学生でない限り、嫌なら行かなければいいだけの話なので、あくまでこれは、経営者の判断次第のことだ。
 さて、同じ日のニュースで、自民党の井脇ノブ子が、竹中平蔵の辞職による繰り上げ当選で、議員になる予定の神取忍の金髪に物言いをつけたというのがあった。
 奇しくも学校関係者と議員から、金髪は「ノー」という意見が出たわけで、面白い。
 こちらも、秋田経法大と同様、意見を言うのは誠に自由で、井脇議員の意見は意見として承ればいいことだが、さて神取忍が黒髪で来るのか、金髪でくるのか、あるいは奇をてらって別の色に染めてくるのかは、一つの楽しみである。
 こういう記事には必ず、髪型よりも、議員としての云々というおまけが付いてくる。神取忍ごときに、いっぱしの政治家の腕を期待しない事を揶揄するような印象を受ける。
 だが、それほどこのことは政治とは関係のないことか?
 先日、東京地裁が、東京都の教育委員会が、君が代斉唱と国旗の掲揚を教職員に義務づけたり、しない職員に罰則を与えるのは思想の自由に違反するという判断をしたが、全く違うように思えて、実は金髪も国旗国歌も似ているように思える。
 秋田経法大の方は、
『頭髪について「周囲に不快感を与える特異な髪形、染色、脱色は禁止」、装身具も「華美を避け、品位を保ち、ピアスは禁止」-読売新聞からの引用』
 ということのようで、『指導に応じて改めた学生には褒賞金1万円が付いた学長賞を贈る』という、笑える処置もおまけに付いている。
 確かに「いわゆる不良」といわれる人たちの多くは髪を染めたり脱色したりしている。だが、金髪や脱色、カラーの髪の毛の人間の多くは普通の人たちだ。ましてやピアスに至っては、自分がすることは金輪際無いが(痛そうじゃないか!)、今ではごく当たり前のファッションだ。
 私には、この学校関係者が、自分たちが育った時代や、自分たちがこれまで身につけてきた価値観、善悪基準で、物事を判断しているようにしか見えない。単純に「古い」とかではなく、この世の中には様々な価値基準があり、それは時代とともに変わる。
 新しいものが何でもいいわけではないが、古いものが何でもいいわけではない。
 今回の自民党の総裁選挙で、教育改革というのが、国民の関心事項の非常に低い位置にいながら、3人供が非常に重要視をしていた。共通するのは、昔は良かった、だ。いや、言い方は悪いが、確かに昔は道徳教育など、今に比べればしっかりしていたようにも思える。戦前の人たちは修身などと、非常に厳しく教えられたようだ。
 だが、今荒廃しているのは、教育現場ではない。世の中全体で、教育現場はその縮図に過ぎない。私が子供の頃も、まだ道徳という授業はあったし、きっと色々教えられてきたのだろう。覚えていないが。
 前出の教育委員会と現場の教師の争いを見ていて、子供が規範とできるだろうか?
 先日安倍総理の昔の話をテレビで流していて、教師が、日米安保はとんでもないといったようなことを言ったとき、学生の安倍は、経済条項はどうなんですか、みたいなつっこみをしたというのを見た。
 そもそも教師、特に昔から日教組と、国は、犬猿の仲だし、日教組は共産主義よりだった。
 共産主義がいいか悪いかよりも、人類には不適であることは、いい共産主義国家がほとんど無いことでも解る。少しでも人よりいい生活を願う人間が、共産主義に満足できるはずはない。
 さて、話が逸れたが、毎日これだけテレビで放映されても飲酒運転が後を絶たないような社会で、子供たちだけに正しくあれと言っても、全てがそううまくいくわけではない。もちろん、正しく生きることは、必要だし、重要なことだ。
 だが、髪を染めたりピアスをすることが果たして正しくないことだろうか?私には全く解せない。ましてや、「子供たちの模範とならなくては」などという、意味不明の関連性では、頭を抱えざるを得ない。
 髪を染めることが良くない理由を、しっかりと論理立てて、多くの人が納得するように説明してから、それを禁止するなり、批判してもらわないと、何となく不良っぽいといわれているようで、子供はますます反発するだけだ。自分の子供時代に、そういう反抗をしたことが、彼らはないのだろうか?
 染めた髪が不快なのか、金髪が不快なのか、日本人の顔をして金髪が不快なのか、論点も曖昧だし、一体どれほどが不快と思っているのか、それは「慣れ」の範囲ではないのか、ピアスはいけないが、イヤリングならいいのか、訳が分からない。
 友人が、昔、「高校では化粧を教えるべきだ」といっていた。卒業して企業に入ると化粧が一気に身だしなみに変わるのに、高校時代はいかにも良くないことのように言われるという。
 事ほど左様に、感覚に依存した規範というのは、決める側と守る側のギャップが大きい。あたかも自明のことのように金髪やピアスを否定する前に、もう一度自問自答して欲しい。日常的に哲学してくれないかな、彼らも。
 

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