ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
9月13日14時48分配信 時事通信
【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。
というニュースがYahoo!にあった。そしてちょっと驚いた。
ダーウィンの進化論(「種の起源」)そのものが、どこまで正しいのか、それは別にして、大筋では天地創造も、人類の進化も、教科書にはたぶん、ビッグバンやダーウィンのものが世界共通で,ある程度は学ばれているに違いないと思っていた。
宇宙の始まりや終わりを描くSFに比べて、生物の進化を描くSFは比較的少ない。後者はどちらかというと、タイムトラベルものになりがちだ。「太陽の黄金の林檎」に収録されている「雷のような音(または「いかずちの音」)-レイ・ブラッドベリ」とそれを原作とした映画「サウンド・オブ・サンダー」などは、背景に厳然と進化論がある。
まあ、本当にアメリカ人で進化論を信じているのが39%で、残りの人がみんな聖書を文字通り信じているのだとすれば、とっても驚異的だが、どちらかというと、そういうキリスト教団体の力が、日本では想像できないくらいに強いのだろうと思える。
先日、テレ朝の「学べるニュースショー」で池上彰が(この人はかつて、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さんとしても、非常にわかりやすい解説をしていたが)、丁寧に説明していたが、ユダヤ教が信じる旧約聖書、キリスト教が信じる新・旧約聖書、イスラム教が信じる新・旧約聖書とコーラン、いずれにしても、旧約聖書を信じている人は(文字通りという意味ではなくても)、世界の人口の半分くらいはいるという計算になる。
一週間で世界を想像した神が最後に人間を作ったわけで、「光あれ」はビッグバンと相応しているからきっと問題はないけど、進化論は人間が神によって神に似せて作られたというところに抵触するのだろうな。
宗教を信じるあり方というのは何通りかあると思うが、それはぼくが日本人だからそう客観的に言えるのかも知れない。よく、海外で無宗教だというと不思議がられると言う話を聞くが、本当に無宗教であるなら、盆も彼岸も無くて良いわけだし、神社に参る必要もない。
非常に希薄な信仰心の中で、おそらくたいていの人は何かにすがっていて、日常的には何も感じていなくても、いざというときに見えない何かに頼むと言うだけで十分宗教であるに違いない。もちろん、体系化された何かを主体性を持って拝むなり祈るという行為がそこに必要であれば、確かに日本人はそこから外れる人が格段に増える。そして、神を信じる外国人には、おそらくそのことはいい加減という風に映るかも知れない。
ビッグバンや、それ以前の宇宙を論じる、理論天文学者の多くは、常に始まりの前という誰も踏み込むことができない領域、無限の外側という、人間が規定できない領域に挑みつつ、そこで論理を組み立てることができないときに、神を持ち出すしか無くなる。
それが旧約聖書の神なのか、ギリシャ神話の神なのか、ヒンドゥー教の神なのか、人によって様々だろうが、この世が人の想像、あるいは学問なり論理が及ぶ以外の部分を持っているため、それはやむを得ない事なのだ。
テレビを見ていると、意外に心霊写真や幽霊を信じている人が多いように思える。テレ朝のスピリチュアルな番組(最近はやってないのかな)などを見ても、いわば日本仏教的な先祖だったり、生まれ変わりや守護霊や、そんなことを某か信じている人は多いように見える。
生まれ変わりに関しては持論があって、過去何であろうと、そのときの記憶がない限り、生まれ変わりなど存在しない、と思っている。
ただ先祖は間違いなく存在するので、お父さんの霊が守ってますよとか、この写真に写っているのはこの滝から身を投げた女性の霊ですとか、そんな話はあるとも言えないしないとも言えない。こういうものに限らず、「ない」ことを証明するのはとても難しい。
「わしは裸だ」とのたまう王様に、見えない生地などないと証明するのは、なかなか難しいことなのだ。
人類が猿から進化したという表現は、たぶん、日光の山にいる猿が、いずれ人間になるような錯覚を与えるので、あるいはよろしくないのかも知れないが、よくある人類進化の絵のように、・・・昔、UriahHeepなどがレコードを出していたブロンズというレーベルは、その絵を使っていた・・・類人猿やさらに猿人と言われるような、人類の原型が、単純に神の似姿としてではなく、いたという話は、単純にエデンの園で一対の男女が作られたという人類誕生の話よりも説得力はある。
アダムとイブ、そしてその子孫であるカインや、とても重要なアブラハムなどの話の中で、ふと気づくと、聖書にはおそらくアダムとイブを祖先としていないように見える他の部族がどんどん出てくる(ように見える)モーゼが脱出し、その前は世話になっていたエジプトの人間も、どうやら聖書の神とは一線を画すようだ。
さて、バベルの塔の故事以前は、世界が同じ言葉を話していたそうなので、そこを基準に、神を信じる部族と信じない部族ができ、それ以前は一つだったという考え方もできるのかも知れない。
ぼくはクリスチャンじゃないし、聖書学者でもないので、拙い知識でいろいろ考えるが、自分の祖先の一番古い人は神が作ったのだ、と信じることは、とりもなおさず、アダムとイブに帰着し、「人類皆兄弟」となるわけだが、カインとアベルの故事よろしく、人類は殺し合っている。十戒ですでに禁止されている殺人を、まあキリスト教を信じて生きたこれまでの歴史上の人々も、現代の人々も、犯しまくっているように見える。だがこれはまあ、神に敵対する者への聖戦という位置づけで、少なくとも宗教上は回避できるのかも知れない。
さて、であれば、ダーウィンの映画など、神を知らぬあほどもの(異端の民の)映画として、鷹揚に見られないものなのだろうか?
ぼくは、マイクル・ムアコックという人の「この人を見よ(Behold the Man)」という小説が好きなのだが、一般的にこのタイトルはニーチェの小説として名高い。ヨハネの福音書で、ピラトが群衆に向けてイエスを指さして言う言葉だ。この後イエスは十字架にかかる。
ムアコックの小説は、サウンド・オブ・サンダーではないが、イエスの時代にタイムスリップした男が、イエスを見ると白痴だった。彼は、未来の技術で人の病を治したりしているうちに、なぜか自分が聖書に書かれているイエスの行跡をたどっていることに気づき、やがて十字架にかかるという話だったと記憶しているが(ずいぶん前に読んだので、面白かったという記憶だけで結末などを覚えていない)、こんな小説は、批判の対象にならないのだろうか、と、当時思ったものだった。
いずれにしても、ああびっくりなニュースでした。
ニーチェの作品
ムアコックの作品。現在絶版中のよう