由比敬介のブログ
ポルノ
ポルノ

ポルノ

 Yahoo!のニュースに、ジャッキー・チェンの息子が出演する映画の監督が、テーマはあくまで「純愛」で「ポルノ」じゃないと言っているという記事が載っていた。中国語で『三級片(ポルノ映画)』と出ていたが、どうもこの辺りは、中国では三流映画=ポルノ、あるいはその逆という見方があるからのようだ。
 日本でポルノと言えば、懐かしい「日活ロマンポルノ」だが、そもそもこのポルノという言葉は、pornographieというフランス語で、いかにもと納得がいく。フランス映画と言えば、「エマニュエル夫人」や「O嬢の物語」など、エロティックな映画に事欠かないし、アポリネールなどの詩人もエロティックな小説を書いていたりしていて有名だ。イタリア人などはこの辺の作品に対して非常におおらかなイメージがあるし、フランスも、+エスプリみたいなところでクレイジー・ホースのような高級ストリップ(と言ったらフランス人に怒られるのかな?)が一つの文化となっている。
 もちろん、裸とポルノは違う。だが、いわば裸婦の画からポルノに向かって、決して途切れることのないルートが通っていることもまた事実だ。
 ある意味ポルノは、隠微で後ろめたさが同居しているからこそ、人々の興味をそそる側面がある。
 性欲というのは、人間の三大欲の一つだというが、どう考えても睡眠と食欲とは意味が違う。この2つは断てば死に繋がるが、性欲だけは満たされなければ死ぬという類のものではない。とはいえ、その三つの中に入れられるというのは、それなりの意味があって、それはよく言われるように、種の保存則から来る、子孫を残したいという部分を指すのだろう。
 だが現代人に於いて、性欲は決して種の保存のためではない。子をなしたいという欲求は、性欲とは別の次元の話だ。子供を作らないようにコンドームを付けてセックスするという行為には、種の保存などという学術的な意味など無い。これは象徴的なことで、現代人にとって、性欲は快楽と愛を満たす以外の行為ではない。場合によっては愛さえない場合もたくさんある。また、力の強い者、財力のある者、権威のある者が、一方的にそれを満たす行為となる場合も少なくない。
 つまり、ポルノを三級に貶めることというのは、日常生活の中に織り込まれた、それらの、いわば不道徳な行為をどこかその作品に見るからに他ならない。だが同時に、そこには、単なる排斥以上の興味や、憧れが潜んでいる。
 百科事典を見ると、マルキ・ド・サドの作品などがその嚆矢として挙げられていたりする。
 ポルノというのは、かつては小説であり、絵画だったかもしれないが、写真が出、映画が出ることによって、その表現力は格段に広がり、同時に狭くなった。
 日本は、世界に冠たるアダルトビデオ(今ではDVDか)の発巻数を誇っている。圧倒的な世界一らしい。アメリカをも凌ぐというところがすごい。何億円市場だか知らないが、相当な経済的地盤を持っているのだ。仮に、日本でポルノを全面的に禁止したとしたら、経済が破綻するのではないだろうか?
 映画監督が、躍起になってポルノではないことを主張するのならば、恐らくポルノではない。それは、作曲家がこれは交響曲じゃなくて、管弦楽的愛憎だ、と名前を付ければ、そうなるのと同じだ。でも中身が変わるわけではない。また、ポルノであるというだけで作品的価値が低いと決めてしまう文化もどうかと思うが、実はさっきも少し書いたとおり、そんな文化の中でこそ、成長する分野なのかも知れない。
 よくポルノに関して、普通にみんながしてることを書いている(演じている等)だけ何に、という人がいるが、決してそうじゃない。あらゆる文学や映像作品等が、実生活をある程度シミュレートした者だけではないように、およそ日常とはかけ離れたことや、実際には不可能なことも含むからこそ、ポルノグラフィなのであって、そこには別の世界がある。前出のサドの作品などいい例だ。
 それでも人が人でいる限り決して無くならない分野であり、少なくとも男は、成長する過程で避けて通ることのできない分野であることもまた事実だ。徒に、悪いとか、劣っているとか決めつけるのは、いかにも・・・・な感じだ。

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