昨日少し髪型の話に触れたので、今日は髪型のお話しを。
髪型というのは世界各国、そして時代とともに様々な形がある。現代社会は、概ね男性は短髪で女性はかなりファッショナブルに様々なスタイルがある。もちろん、男も様々なスタイルはあるが、ビジネス等に多く左右されているように思う。先進国の首脳が宗教的な意味などもなく肩まで髪を伸ばしている姿など見たこともない。
かつて日本人はちょんまげを結っている時代があった。中国には清の時代、弁髪というのもあった。今でもアフリカなどには特殊な髪型をしている部族もあるに違いない。かように、髪型というのは時代とともにかつてはあったのだ。
さて、髪型というのは見てくれの一つだが、「こういう髪型が望ましい」というのが、ある程度要請される場合がある。飲食店の店員が、長い髪を振り乱していれば、不潔な感じがするとか、同じ理由で医療現場も、それなりの髪の方がいいような気もする。もちろん、どんな会社であれ、不潔でいいはずはなく、人前に出るときの礼儀として、ある程度の清潔感というのは大切なことだ。だが、そういう快不快という基準であれば、それは髪の長さではなく、明らかに何日も洗ってない(それなりの理由もなく)とか、そのために肩が頭垢だらけになっているとか、そういうことだろう。但し頭垢も体質的なこともあるかも知れないので、一概に悪いと決めつけてはいけないのかも知れないが。その点は知識不足だ。
昨日も少し書いたが、中高生などに、短髪やストレートの髪を強要する意味が、この年になっても全く分からない。自分が教師だったら、「理不尽ではあれ、校則に決まっている。君たちの中から動議を出して校則を変える努力をしてみたらどうか。援助は惜しまない」とでも生徒に言ってやりたい感じがする。秩序を守るというのは闇雲に決まっていることを守り通すことではないだろう。法が必ずしもみんなの味方ではないことは、国の法律を見ていても解る。
私は髪の長さも色も、少なくとも自由主義国家であれば、ほとんどの人が自由にしていいと思う。一般人がみんな髪の毛をカラフルにしたら、不良(この言葉も旧いのかな)はきっと、黒々とした髪を尊ぶに違いない。
営業マンが長髪だからと言う理由で信用されないケースは、多分今の時代でもあるような気はする。それは茶髪も同じだ。例えば女性だって、普段着で営業はしないというのと同じだ。という理屈は、ある程度説得力がある。TPOというやつだ。
まあ、現代にすぐ、そのTPOを覆せと言っても難しいだろうが、不思議なことに、未来を描いた映画を見ると、あまり現代では見かけないような制服姿の登場人物が多かったりする。
少し前に読んだ「万物理論」という小説では、性の自由が描かれていた。汎性という、男でも女でもない人物や、男と女の中間など、自由に性をコントロールできる世の中だった。これは保守的なキリスト教的社会の中ではあり得ないことだと思うので、そう簡単に実現するとは思えないが、人が生きていく上で、自由にコントロールできる部分、ファッションや食事のスタイル等、全てが全てではないが、かなり大幅な個人差があっても不都合のない部分はあると思う。
髪型もその一つだと。人間性がその髪型や色で解るというような、不確実な意見は消えていくことを信じたい。
尤も、「その髪型似合わないから変えた方がいい」と、伴侶や恋人から言われたら、素直に変えるにしくはないとも思うが。