諸行無常とは仏教用語だ。平家物語の冒頭で「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」とあるのは有名なところだが、これを聴くと、諸行無常というのは何か幽玄な、非常に茫漠としながらも重みのある得体の知れない物みたいな感じも受けてしまうのだが、すべてのものは常ではない、ということを言っているに過ぎない。
過ぎない、などと書くと軽んじているようだが、そう言うことではない。
時代も、物も、事も、人の心も、移ろいゆき、一所にはいないのだという、この真実は非常に重いと感じている。
この世の中で、何が正しくて何が間違っているかということはすごく難しいことだ。私は正義ということが好きだが、イラクを攻撃するアメリカが正義を振りかざすのを見ていると、いったい正義とは何だろう?と感じないではいられなかった。
歴史の悠久といわれる流れの中で、人は数え切れないくらい争い、殺し合い、破壊し、創造してきた。それもこれも、人の心の中にある何かが動かしているのだ。個々の人が幸せを求めても、得られる人と得られない人がいる。神の名を呼んでも、助かる人とそうでない人がいる。この世が平等や公平を基にできていないことは誰でも知っている。
諸行無常という中には、それでも幸も不幸も移ろうのだと言うことを言っている。絶対的な真実があるとすれば、それは、諸行無常だとか、諸法無我だとか、涅槃寂静といういわゆる仏教の三法印と呼ばれる言葉の中にはあるような気がする。
仏教はとても哲学的で、その思想は人生やこの世の成り立ちを極めようとする釈迦牟尼の、「悟り」というのがいかに清澄だったかを感じさせる内容をもっている。
人生は苦だという。
マーラーは「大地の歌」の第1楽章で「生は暗く、死もまた暗い」と歌う。
人の人生が死に向かっているのなら、なぜ人は殺し合うのだろう?
何十億という人間が住み暮らすこの地球で、諸行無常を思う時、そして幸せを求めるのがすべての人間の営為だと知る時、互いが互いの幸せを引き出してあげることこそが、自分の幸せに繋がることだと、多くの人が気づくに違いない。
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」
と平家物語は続く。この変転の人生を知ることこそが、大切だ。驕る平家とならぬが人の但し生き様なのかも知れない。・・・・まだちっとも驕れる人生じゃないが。