歌謡曲というジャンルは、どこからどこまでを指すのだろう。
私は、自分のパソコンに入れてある邦楽のMP3は、基本的にすべて「J-POP」というジャンルにしている。演歌も、ロックも関係ない。唯一、アニメの音楽は「Anime」でフォルダも変えている。あ、もちろん、日本人のジャズは「Jazz」だし日本人の演奏家でもクラシックは「Classical」になってはいるが。
北島三郎と、中島みゆきが同じジャンルのはずはない。北島三郎は、明確に演歌だし、中島みゆきは今の言い方ならJ-pop、かつてはニューミュージック、それ以前ならフォークソングとなろう。では、由紀さおりはと言えば、これが歌謡曲だ。もちろん、日本の童謡を歌った曲ではなく、「手紙」とか「夜明けのスキャット」とかだ。
さて、森昌子の古い歌に「中学三年生」という歌がある。森昌子と言えば、デビュー曲「せんせい」も演歌かどうか怪しいところだが、「越冬つばめ」「立待岬」など、後年はまさに演歌の歌手である。
この「中学三年生」は、実はアルバムの中で山口百恵も歌っている。これは当時で言えば、やはり歌謡曲だ。ちょっと後になると、アイドルポップスと言うことになるだろう。でも、何となく森昌子が歌うと演歌だったりする。
演歌も歌謡曲の一部と考えれば、これは解りやすい。
しかし、私はポップスと歌謡曲の違いがよく分からない。日本のポップスが歌謡曲で、今はそういう言い方をほとんどしない、というような区切りでいいのだろうか。
歌謡という言い方はやはり古臭いし、演歌という表現は古さを尊ぶからこそ朽ちない表現なのだ。そういう意味では、中島みゆきも、浜田省吾だって歌謡曲だし、私はよく思うのだが、ディープパープルってイギリスの歌謡ロックだ。
ロックやポップスの中で、あれだけこてこての歌謡曲的メロディラインを書く人は少ない。最も最近の洋楽に関してはとんと暗い私だが。
さて、この歌謡曲というのはとても日本人にしっくり来るのだ。いわゆる日本の5音音階は、例えば沖縄民謡に似たところがあるので、本来から言えば、西洋音楽の日本人なりのアレンジ音楽といった方がいいのかも知れない。まさに日本人は、このアレンジという部分がとても上手で、最近の日本の若い人向けの音楽も、アメリカやイギリスの音楽を巧く輸入している部分が多い。
確かに昭和40年代、50年代くらいの歌謡曲には私くらいの年齢以上になれば、懐かしさが第一になる。かつて、自分の親が懐メロを見る姿を見て、退屈な音楽が多いと思っていたが、今、懐メロ番組を時々やっているが、そこに登場する歌手は、かつて自分が幼い頃、あるいはティーンエイジャーだった頃といった方がいいかもしれないが、その頃に流行っていた歌手だ。
サザンオールスターズ、井上陽水、中島みゆきといった歌手は当時から第一線だったし(サザンは少し後だが)、今でも第一線だ。すごいことだと思う。
懐かしさというのは一つには曲そのものに対するノスタルジックな印象もあるが、当時の出来事との関連で懐かしさを感じるものもある。おそらくは恋愛が最右翼だと思うが、その時の感情を呼び起こすことができる。
洋楽ももちろんそうだが、歌謡曲は曲だけでなく、その歌詞も絡むことがある。
私がそういう感情と共に思い起こす曲をふと思い浮かべるとしたら、バンバンの「いちご白書をもう一度」と、アグネスチャンの「白い靴下は似合わない」なのだが、どちらもユーミンの曲だ。そう言えば、ユーミンも昔も第一線だし、今も第一線だが、なんか最近はパワーダウンしている。まあ、中島みゆきも「地上の星」がなければ、それほどでもないので、やはりサザンはすごい。別にサザンはそれほど好きではないが、すごいということだけは言える。
サザンは歌謡曲じゃないと一般的には思うが、これはかつてニューミュージックと呼ばれたジャンルは、歌謡曲ともフォークとも一線を画すという意味で使われたからだ。サザンよりちょっと古いが、雅夢の「愛はかげろう」という曲がある。これも言ってみればニューミュージックの曲だが、今聴くと、歌謡曲だなこれは。・・・・という印象でくくれるのが、きっと歌謡曲なのだ。
それにしてもこの「愛はかげろう」は、カラオケで歌う時は要注意だ。女の子と行く時はちょっとセクハラだから。