手塚治虫の「ブッダ」を読み返している。
「ブッダ」はもちろん、お釈迦様の伝記を扱ったマンガだが、実際残っている仏伝に手塚なりの脚色がされ、人間シッダールタが、ブッダとなっていく様が生き生きと描かれている。
釈迦の伝記というのは、そもそもが口伝によるお経などを基にまとめられたものだし、大乗仏典がまとめられる中で、かなり神秘的な要素も加わっている。そもそも2600年も前の人なので、その当時でさえ、かなり神秘的なオーラに包まれていたであろう事は想像に難くない。
現代のように、ある程度のことが科学で解り、人の仕組みがDNAで解析されようという時代にあってさえ、様々な奇跡や不思議を語る人は、枚挙に暇がない。マジックなどというのは仕掛けがあっても、あれほど不思議なのだ。
人の世の成り立ちを説くブッダに神通力があっても不思議はないだろう。事実十大弟子の筆頭格のモッガラーナ(目健連・・・健という字は本当は牛偏だが、字がない!)は神通第一と言われていたらしい。
釈迦の伝記は通常、人というより、人や神を超越した覚者として描かれ、生まれたとたんに有名な「天上天下唯我独尊」と言ったとされる。天地に自分より尊い者はないと言うことだ。普通に考えれば、これ以上傲慢な言葉はないところだが、覚りを開き、人を導く優れた者になるのだから、ある意味最も尊いに違いない。だが、生まれてすぐそんなことを言うはずはない。
手塚の「ブッダ」は、超能力者(霊能者)として描かれているが、微妙なラインを取っている。基本的には仏典によるが、アーナンダや、アッシジはより強力な役割を与えられ、タッタやチャプラといったオリジナルのキャラクターが手塚らしい彩りを添えている。手塚治虫の作品を、私はあまり知らない。「鉄腕アトム」「ブラックジャック」「ビッグX」「ワンダー3」「どろろ」などのアニメになった作品を除くと、せいぜいこの「ブッダ」くらいしか読んだことがない。名前だけは他にも知っているが、実際に読んだかと言うことになると読んでいない。
「鉄腕アトム」は同時期に「鉄人28号」という強力なライバルがおり、男の子にとっては、恐らくアトムよりも鉄人の方がずっと人気があった。これはアトムが描こうとしている世界と、鉄人が描こうとしている世界が違うからだ。鉄人はあくまでロボットで、子供が戦車や軍艦にあこがれるのと同じで、単純に強さと勧善懲悪という世界観の中でお話しが構成されているが、アトムはそもそも、「ロボット」というのは体裁だけで、どちらかというと優れた人間に過ぎない。内に優越という意味での差別を抱え、社会が抱える欺瞞や、多面的な正義と悪の狭間で、時には苦悩さえするという作品なのだ。どちらがより単純に楽しめるかを考えればどちらが人気を得るかは、自ずと明らかだ。
世の中というものは面白い者で、社会的に評価を受けるのは「アトム」で「鉄人」ではない。私は手塚治虫という人は天才だと思うし、非常に優れた漫画家であると思う。しかし、私が数少ない手塚作品の中から、純粋にエンターテインメントとして成功しているのは「ブラックジャック」だと思うし、手塚氏がマンガの中で描きたかったことを「アトム」ではなく、「ブッダ」の方がより上手く描いていると思う。
私は昔から、キリストの話や、ギリシャを始めとする神話などをよく読む。聖書は旧訳も新訳も、文章そのものはまだるっこしいが、非常に面白い作品だと思う。そしてまた、随所にいいことが書いてあるのも事実だ。
仏典時代を聖書のように読んだことはほとんど無い。聖書に比べると非常に読むのがしんどいからだ。本来仏典の多くは、「このように仏陀が言ったと私は聴いた」というスタイルで進められているらしいので、その点だけをとっても、聖書に比べて物語性が低い。
キリストは神の子であり、知らないうちに主イエスと言うことになって神の座に座っている。私はこの「人の子」という表現と、唯一神であるはずの神を父と呼び、知らないうちにそれとどうかしてしまったような点を、クリスチャンの方がどう理解しているのかがよく分からない。
ブッダことゴータマ・シッダールタという釈迦族の王子は(王子と言っても今想像するような王権があったわけでもなさそうだ)、人として生まれ、人として死んだ。ちょっと脚色すれば、覚った人として死んだ。後生の人が彼に、一般の人が神と同格のようにして扱う「仏」としての地位を与えたとしても、彼が実在した人間であることは考古学的にも証明されているらしい。
イエスの母マリアが処女で受胎したというのと同様に、ブッダにも、母マーヤの右脇から象が入ったという話があるが、手塚版ではそういう夢を見たことになっている。
確かに、シッダールタのように覚りを開いて人を導くということは誰にもできるものではないし、非常に高邁で、素晴らしい教えであることもうなずける。だからといって彼を神の高みに持ち上げるのはどうだろう。
私は神の存在を否定する者ではないが、信じてもいない。この世の中は考えると不思議なことだらけなので、超越的な存在がどこかにいても不思議ではないが、kの広い宇宙の地球の、しかも一地方に偏在する神が全世界(この場合は全宇宙以上の)を束ねているとは想像しがたい。但しこれも否定する根拠はない。
しかし、ブッダが覚り、教え導いた多くの真実は、非常に貴重で信じる価値があると思う。
これは別の本で読んだことだが、「この世はどうなっているのか」と言ったようなタイプの質問に、ブッダは、「そんな答えのでないことに悩むより、日々を正しく生きなさい」というようなことを答えたという。これが本当かどうかは知らないが、理屈としてはすごく正しい。「人は何のために生きているのか」という質問に、あらゆる哲学者は答えを出せていない(はずだ)。なぜなら答えのない質問だからなのだと思う。答えのない質問の答えをあれこれ考えて、いったいそこに何があるのか?
もちろんブッダの教えの肝はそこにはないと思う。彼が説いているのは、森羅万象を極めたと言うことではないからだ。だからこそ人間らしいし、親近感が持てる。
宗教という言葉を辞書で引くと広辞苑には
「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」
学研の百科事典には
「人が神・仏・絶対者・超越者を認め,一定の様式のもとで,それを信頼・崇拝・信仰することにより,心の安らぎや幸福を得ようとする精神文化の一体系」
とある。
これで見ると、キリストは最初から宗教者として(少なくとも伝道を初めて以来)自分の中に意識があったことは間違いが無く、それは神という絶対者を信仰することで体系づけられている。
しかし仏教はというと、恐らくブッダの死後、徐々に形作られたのではないか。少なくとも生存中のブッダには、その意識はなかったのではないかと思う。死後は法に寄れというのはブッダの遺言だが、法とはブッダ説いた人の生き方であり、その方を中心に人々が信仰を深めることにより、宗教として成長していったのであろう。
キリスト教徒仏教は仏教の方が500年ほど古いが、似た教えも多く、例えば、仏教でいう貧者の一燈(この言葉を初めて見たのは「巨人の星」だったが)とキリスト教でいう「金持ちが神の国にはいるのはラクダが針の穴を通るより難しい」というのはほとんど同じ意味だし、そもそも捨てることをよしとする文化がそこにはある。
人としてのブッダが(かなり破天荒な超能力は満載だが)、悩みながら覚りを得、梵天の勧請を受け伝道を始め、入滅するまでを実に手塚は生き生きと、波瀾万丈に描ききっている。手塚なりのユーモアは所狭しと横溢しているが、全体は一本の芯が通っていて、揺らぐことはない。きちんと仏典の骨子を外すことなく、豊かな肉付けをしている。
いくつも仏陀の話は読んだが、手塚の作品は面白いと同時に胸にも響く。
ずいぶん前、「涅槃で待つ」と言って自殺した人がいて話題になったが、「涅槃」という言葉は難しい。「ニルヴァーナ」(ロックグループじゃない)の音訳だそうだが、よく死ぬことに使われるが、それは死と涅槃が似ているからかも知れない。煩悩を吹き消すって、普通に生きていては無理だ。だが目指すことはできよう。
キリストや仏陀に限らず、優れた先人の多くは、我々に多くのことを教えてくれる。このマンガ「ブッダ」は、そういう意味で、もっと読まれてもいい作品だと思う。