先日、Intermezzoというダーバンのブランドのマフラーを頂いた。多謝。
さてこのIntermezzo、普通に読めばインテルメッツォだが、ダーバンはインターメッツォなのだ。これがイタリア語なら、多分インテルメッツォが正しいが、言語というのは意外にこれをインターメッツォと読んでいる国なり地方なりがあるのかも知れない。単純に間違いと決めつけるわけにはいかない。
例えばAeroという接頭辞は、「エアロ」だが、Aeroflotは「アエロフロート」だ。でも、Aerosmithはアエロスミスではない。エアロスミスだ。元々このAeroはAir(空気)のことだから、「えあーろ」とうことだと思うが、アエロフロートはロシアの航空会社だからなのか、それにしたってAeroの部分は飛行機を表す英語だから、どうもよく分からない。
さて、同様に、Intermezzoも、インテルメッツォとAtokで打って変換すると、Intermezzoと表示されるのだが、インターメッツォと打っても、実は同じ単語が出る。
そもそもこの言葉は、「間奏曲」を表すイタリア語のはずなので、本来は「インテルメッツォ」のはずだ。音楽用語は、イタリア語やドイツ語がほとんどなので、これはインテルメッツォであると疑っていなかったのだが、これは微妙な聞き取りの違いとしては、表記が大幅に違う。
実は辞書によると「インテルメッゾ」と書いてあるものもある。いっそのこと、「インターメッゾ」とでも書いてくれれば、明らかに英語読みの誤表記では、と思えるのだが、そもそもイタリア語の素養どころか、英語の素養もあまり無いので、どうもただ釈然としない気持ちだけがしこっている。
閑話休題。
間奏曲と言えば、忘れられないのがカラヤン指揮によるレコードだ。この「うちでのこづち」で、マスネの「シンデレラ」というオペラについて書いた時にちょっと触れた。
この中でカラヤンは、必ずしも全て著名ではないけれど、間奏曲が単体で聴いて楽しめるものを10曲前後収録していた。CDになって曲数が増えていたが、ものによって何でこれを追加?みたいなヴァージョンもあった。
カラヤンは死後、「アダージョ」というアルバムをグラモフォンが発売してベストセラーになった。私自身は聴いていないが、「アルビノー二のアダージョ」とか、言ってみれば静かなクラシックの寄せ集め。そしてこの原点が多分、この間奏曲集だ。
「椿姫の第三幕の間奏曲」「カヴァレリアルスティカーナの間奏曲」「道化師の間奏曲」「友人フリッツの間奏曲」「マスネのタイスの瞑想曲」「修道女アンジェリカの間奏曲」くらいまでは覚えているが、後何が入っていたか思い出せない。
これらはどれも静かで美しい、言い方を変えると、いい睡眠薬の音楽だ。
基本的にはそれに続く楽章のテーマになるようなメロディーが使われている。
インテルメッツォとはそもそも、オペラ・セリア(シリアスなオペラって事だ)の幕間に関係ない喜劇を入れるという、それだけ考えると意味が分からない仕組みの、その喜劇のことだ。ペルゴレージの「奥様女中」が有名だ。・・・あのCDはどこへ行ったの・・・
それが、幕と幕を繋ぐ間や、場と場を繋ぐ間、あるいは、オペラとは関係なくても、何かの間に挿入される曲などが、いつの間にか間奏曲になった。日本語で間奏曲と書けば、非常に意味はよく分かる。mezzoとは、メゾフォルテとかメゾソプラノでも解るように、中くらいとか、真ん中のという意味のようだ。interも多分英語的にはそんな感じだ(インテル入ってるっていうのもきっとそんなところだろう。英語ではIntel Insideだが、これをインテル入ってるに言い換えた人は頭がいい。・・・余談だ)。だから、インテルメッツォは、中の音楽というような意味なのだろう。
さてこのカラヤンのアルバムを聴いてみると、たとえオペラが総合芸術であっても、十分抜粋で楽しめるというのが私の意見だった。例えば、レコードやCD でオペラを聴く場合、1枚とか1面だけとかいう聴き方を普通にできるから。歌唱もイタリア語だったり、たまにドイツ語やフランス語、ロシア語だったりするわけだが、そもそも何を歌っているか解らないので、筋は追わない。
ところが、なかなかオペラを見にいく機会がなかったのだが(オーケストラコンサートばかりで)、ここ数年、たまにオペラを見るようになると、ああ、CDでは見えていなかったものが(言葉の意味としては当然だが)あったのだ!という思いに、これまでオペラを見なかったことを後悔した。
オペラ公演の唯一の欠点は、休憩時間が長いことだが、これは歌手のことを考えればやむを得ない。これのせいで、2時間のオペラは3時間以上になるし、たいがい6時は過ぎて始まるので、9時過ぎまで食事はできない。これは日本の劇場では当然だ。海外のホールを知らないが、さすがに映画館のように座席で何かを食べられるとは思えない。せいぜい、幕間のサンドイッチとコーヒー程度だ。
しかし最近は、字幕もしっかり出るから、内容も追いやすいし、極めて快適だ。
もちろん、それでカラヤンの間奏曲集の価値が下がったわけではないが、オペラは再発見だったのだ。
さてそのカラヤンの間奏曲集で思うのは、60年代から80年代にかけて、カラヤンが帝王として君臨していたクラシック界だが(CDの収録の長さにまで影響を及ぼすのだからたいしたものだ)、カラヤンという指揮者は、実にこういう種類の、いわばエンターテインメントとしてのクラシックの扱いが上手いと思う。多分、R.シュトラウスも走だったのではないかな?と思わせるほど、カラヤンのR.シュトラウス作品もいい。美しく聴かせるすべをわきまえている。ベルリン・フィルというのもミソかも知れない。
とにかく間奏曲、Intermezzo、侮るなかれ、ということで。