由比敬介のブログ
国旗掲揚・国歌斉唱
国旗掲揚・国歌斉唱

国旗掲揚・国歌斉唱

 今日のNHKのクローズアップ・現代は、主題の内容を取り上げ、都の教育委員会が、校長を通して、現場の全ての教師に君が代斉唱の時に立ち上がって、国旗の方を向くと言ったことを業務命令として出したという。従わなかった者には罰則があるらしい。都内で50人だと言っていた。
 この問題は毎年この時期に必ず浮上してくるし、いつだったかつい先頃、天皇が「強制はいけない」と言っていたのを思い出す。
 都の教育長(こういう呼称ではなかったか?)は、指導要領や、正確に覚えていないが教育基本法かな、いずれにしても彼が言うところの法律で決まっているのだから当然だし、秩序の問題であるというようなことを言っていた。私はこういう人が教育の現場を取り仕切っている社会で、教育を受けたくないとその瞬間に思った。
 私は別に日本の国旗としての日の丸も、君が代も嫌いではない。ことさら尊重もしていないが、現代社会に於いて日本人のアイデンティティーを象徴するモノとしての国旗や国歌はあってもいいし、それが現在の日の丸や君が代であっても一向に構わない。私自身は戦争を経験していないので、国歌や国旗が持つ過去の戦争との兼ね合いという問題に関しても、別に国旗や国歌が戦争を起こしたわけではないので頓着しない。
 しかしことは、そう思う人もいるし、思想・信条の自由を奉じた憲法の下で、それが明らかに犯されていると感じる人たちがいることの方だ。儀式の秩序などというのは、所詮形式上のもので、生き方や信条に比べたら些細な問題だ。
 私が生徒だったら、その行為にこそ反発して、自ら立たない立場を選んだかも知れない。こういう教育現場を預かる者のトップに立つ今回の教育長のような人は、いったいどんな青年時代を過ごしたのだろうかと不思議に思う。 現場の教師の、そして学生の反感を煽っているようにしか思えない。
 愛国心という言葉がある。国に限らず、何かを愛するという心は長い歴史や実生活の中で、大切であり、それが人と人の関係を根本的にいい方向へ導く可能性のある何かだという風に共通認識があると思う。国を愛することもまた、その一つだ。
 だが同時に、愛国心という言葉は、民族主義とか、宗教的信条とかと同様に、他を排斥しかねない危うさもそこに内包している。例えば北朝鮮が愛国と言ったらどういう意味になるだろう?戦前の日本の愛国心は、今の愛国心と同じだったろうか?
 言ってみれば、国歌斉唱と国旗掲揚を強制されることは、この危うさをそこに感じると言うことなのだ。そして教師の多くがそれに反発しているとすれば、上に立つ人間がどう上手いことを言って逃げを打っても、そこに問題があることは間違いない。
 法とか秩序という言葉で片づけようとするそういう人たちは、自らがそちら側に立ち、統制することで秩序を守ろうとする。これは独裁者や独裁国家のやっていることと根っこでは非常に似ている。
 学校で長髪がいけないとか髪を染めてはいけないとかいうのは、それを「不良」という目で見る見識がそこにまずあることを、まず認めていかねばならない。校則を厳しくして生徒を統制しようというのは、結果的に学校が全ての生徒を枠にはめていくと言うことだ。例えば世の中で、芸能人や社会人が茶髪やロン毛であるとき、なぜ学生にはそれが許されないのかと言うことを、学生に納得させることが簡単にできるだろうか?なぜならそこには、秩序を守るとか、ルールだからという根本的な意味が含まれない言葉で説明されるからだ。
 ルールは確かにある。そこには暗黙のものもある。幼いうち、若いうちは、それをどう判断すべきか解らないから、教えていかねば行けないという理由は確かに正論だ。だからといって、ルールだからという言葉が、誰をも納得させるわけではない。例えば茶髪はなぜいけないのかを、それがどうしてルールになり得たのかを説明しなくてはいけない。
 同様に、なぜ卒業式では国旗を掲揚しなくてはならないのか、国歌を一律に歌わねばならないのか、そこには説明すべき義務がある。教育長はそんな説明をしていなかったし、恐らくできないだろう。したとしても納得いく説明ではないだろう。
 どこの国だって・・・・と言うことがよく言われる。もちろん、多くの国家で、国旗や国歌に誇りを持ち、アイデンティティーの寄る辺として、心に住まわせている多くの国民がいるに違いない。だが日本は、先の大戦と、戦後の教育の中で、日の丸や君が代に対し、単純に誇りを持ったり、寄る辺としたりすることができなくなってしまった国家なのだ。
 国会で国旗や国歌を決める前に、国歌(君が代)に対する誇りを持ったり、日本人としてのアイデンティティーを各人が確立できないような社会で、形だけ整えようとするのは、結局のところ権力者の横暴にしか見えない。
 私はこれに反対する都の教職員には是非がんばって欲しい。教育委員会の横暴な仕儀に立ち向かい、そしてもう一度日本という国に対する自分のあり方を考え、自らの意志で国旗や国歌に誇りを持ったとき、それを若い人に伝えて欲しい。我々はいずれにしたって、世界のどこに行っても日本人なのだ。そのシンボルを持つことは決して悪くはない。だがそれは、国家や教育委員会が決めることではない。

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