由比敬介のブログ
血液型
血液型

血液型

私は基本的に占いを信用していません。
それは、生まれた日付による星座や、干支、惑星、手相などといったものが、人の運命や性格に関係するという根拠が全く見えないからです。まあ統計を取ると、多少の傾向みたいなものが抽出できる可能性はあると思います。でもそれは、サイコロを何回も転がしたり、ルーレットでどの目が出る確率が高いかを計算ではなく、実証で導き出そうとするのに似て、確率論的な公平さを以て結果を証明はできないからです。
サイコロに関しては、穴の数とサイズ(1~6の目の重さの違い)で、どの目が出やすいかと言うことが計算で導き出せるということを、確か「へぇ~」で放送していたような記憶がありますが。
ある月の生まれが、統計的に今日は運がいいとか、金回りがいいとかいっても、そんなに極端な差が出るとも思えませんし、差が出たとしたら、サンプルの取り方がきっと悪いのでしょう。
現代人に限らず、未知のことには人間は弱いものです。
例えば、人が死んだ後どうなるのかなんて、死んでみなければ証明できないことです。その点科学には自ずと限界があります。科学的な証明が年月を経て覆されてきたのは枚挙にいとまがないことですから。魂を脳の皺に置き換えることはできても、魂がないことの証明にはなりません。
では、占いもそのようなものだから、否定しきれないのでは?という理屈はある意味正しいので、信じるものは救われて頂ければいいとは思います。そこまで強硬に、非科学的というレッテルで否定する意味があるとも思えませんから。
ただ、では信じるに値するかと言えば、どんな占いも一見当たってそうな部分がある反面、全く当たっていないこともあります。いわば、当たるも八卦当たらぬも八卦といわれるゆえんでもありましょう。この16進法に依るいい加減さの主張は、やはり信じるものは救われるという部類のものでしょう。
ところが、血液型というのはちょっと様子が違っていて、少なくとも性格判断の役には立つような気がします。そうなるとそこから演繹できる運勢みたいなものも、うまくすればあながち間違いとばかりも言えないと思えます。
世に血液型というものが存在し、相互の輸血が可能であったり不可能であったりします。この生化学的な事実の中で、血液型の違いが人間に分類可能な何らかの性格付けを持たせていると言うことは、かなり説得力があります。
もちろん、A型は今日は運がいいなどというのは信用なりませんが(何も根拠がありませんから)、人の生き方や生活をしていく上で、自分の血液型がどういう性格的特徴を持っているのかを認識しておくことは、意外と役に立つような気がします。


私はO型で、少なくとも几帳面ではありません。O型が全員几帳面ではないということはありませんが、そんな傾向があるだろうことは想像がつきます。ある意味、自分はO型だからいい加減でも仕方がないんだという逃げの理由付けにしていては意味がありませんが、個人的な性格を見極めるよりも、アバウトにこういう傾向があるのだと認識することの方が容易そうですし、それができれば、努力の方向も変わろうというものです。
例えばこの「うちでのこづち」は、当初毎日書くのだという意気込みで始めました。ところがふたを開けてみると、1日坊主であったことが判ります。
私はリハビリとまで書いて、文章を続けて書くための自分なりの努力目標であったわけですが、二日目にして挫折するようではいけません。人からもそう指摘されました。
自分がどういう性格であるかということを、一つは血の流れのせいにして、責任回避し、だからこそ努力をしていかなくてはならないと考えることができれば、有意義なことです。
かつて大学の先輩が、「人間が四つの性格に分類されてたまるか」というようなことを言っていて私は共感していました。でも、分類するのではなく、大まかに血液型によってこういう性格的な傾向があり、確かに自分はそういう部分を持っているな、と自覚できることは、生活していく上で、結構役に立っている。それが私の今の思いです。
少なくともここ数日、毎日書けてるんだなこれが。いいことじゃないですか。

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