温泉が好きだ。
ああ、日本人的だな、と感じる。西洋の水着を着てはいるのは同じ温泉かも知れないが、あれは風呂じゃない、と思う。
実を言うと、私は泳ぎができない。水は怖い。お湯だって同じだと思うが、温泉を怖いと思ったことはない。温度が違うだけで(まあ成分も)、その違いは面白い。
先日、白骨温泉で入浴剤を使ったというニュースがあって以来、温泉業界はかまびすしい。源泉かけ流しとかで、源泉をそのままうめないで使い、再利用しないものをそう言うのらしい。これは湯量が豊富で、温度がある程度高く、絶え間なく溢れているような温泉地でしか難しいだろう。また、巨大な温泉地に新たに入ってきた宿とかも辛い物があるに違いない。
温泉にわざわざ入浴剤を入れるというのは、ある意味本末転倒な所行ではあるけど、経営者の気持ちを考えると解らなくはない。ただ発想は行為としても、営業的な意味においても正しいとは思えない。
温泉をありがたがる側が、それではどれほど源泉かけ流しやら、効能などにこだわっているのだろう。もちろん、何でもそうだが、「これでなくては」という人が各界にいる。温泉だってその例に漏れないだろう。しかし、多くの人は、温泉が100%であるかどうかとか、効能が優れていると言うだけで温泉を訪れるわけではないし、湯を選ぶわけでもないだろう。
きっと私がこれまでには行ってきた温泉も、嘘がいくつかはあったに違いない。
風呂に湯を溜めて、つかる。家でも気持ちがよい。まして、旅先で広い風呂につかる。気持ちいいに決まっている。それだけで十分満足の一里塚に登っている。そして飯。
なんだかんだといって、旅は総合評価であり、飯だ、眺望だ、サービスだ、温泉だと一つがいいだけでは決まらない。確かに、こういう事件の後は、少なからず気にすることはある。同じにはいい温泉に入りたい。だからといって、それだけが全てを左右する場面というのはよっぽど温泉が趣味という人以外にはさほどないと思う。
温泉が好きだ。
この程度の者には、広い浴槽にゆったり浸かれ、いいサービスを受ける。これにしくはない。
個人的な思いを述べるなら、私は人の少ない風呂が好きだ。大勢の観光客でごった返す有名な風呂よりも、一人のんびり浸かる湯が好きだ。これまでも、自分一人しか浴槽、あるいは風呂全体にいなかったという経験は何度もある。一度などは、旅館にただ一人ということもあった。いい岩風呂で、脱衣所は別だったが、浴槽の奥で男女の境がなく、混浴になっていた。泊まり客が一人では、当然風呂でも一人だが。
北海道の屈斜路湖畔にある確か「コタンの湯」だと思ったが、勝手に入れる露天風呂も気持ちが良かった。人の気配がしたが、男性が覗いて帰った。入ればいいのにと思ったが、実は一人のんびり入っていたので、帰ってくれて幸いだった。
あそこの湯が、どういう効能を持っているか今は覚えていないし、当時も気にしなかった。極端な話、沸かし湯でもきっと入ったろう。湯につかりながら見る屈斜路の風景は格別だった。
温泉が好きだ。何度も言うようだが。
少なくとも私が温泉とその宿に求めることは、温泉といえば多くが旅先である。そのたびを心地よくしてくれるのは、まず第一に温泉でもなければ、旅館の豪華さでもない。宿の方の努力によって醸し出される雰囲気だと思う。それはサービスだったり、部屋の清潔さだったり、食事の盛りつけだったり、仲居さんの人当たりだったり、そんなものだと思うのだが。
温泉が好きだ。そういったときの温泉にはそれらが全て含まれている。単独の湯のことだけではない。それが多くの人に共通していないのかな?
しばらく温泉にも行っていない。のんびりとつかりたいな。