由比敬介のブログ
時計
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時計

 時計というのは文字通り時間を計るものだ。現代生活には欠かせない。
 最近、携帯を持つようになってから腕時計をするのは止めた。つまり腕時計をしなくなって5年近くが経つと言うことだ。時間を計るという目的だけであれば、それでいいことになる。しかし最近、再び時計をしてみようかな、という気になっている。そうしてみて昔の時計を見てみると、どれも電池が無くなって動いていない。当然といえば当然だが。新しいのを買ってからにしようと思った。そうしてみるとやはり時計は、少なくとも腕時計に関する限り、よりファッション性が大切と言うことになる。時計と言うより、ブレスレットという感覚だろうか。
 もちろん、オメガやブルガリやロレックスがしたいわけではないが、気に入ったデザインを選びたいとは思う。
 ところで、時計は英語でclockかwatchで、腕時計はwatchの方だ。watchには見るという意味があるが、携帯用の時計はやはり時間を知るためにじっとそれを見るからそういうのだろうか?clockはまさに時計という意味なので、watchといわれる腕時計にはそれなりの意味がありそうだ。
 人類が時を計り始めたのは恐らく有史以前のことに違いない。もちろん時間感覚みたいなものと、同意の時代があったはずだ。しかし、日時計で始まり、最近の極めて精巧な時計まで、人類はずっと時を計り、そしてどんどんそれを正確なものにしてきた。
 先日、福知山線で悲劇的な事故が起こり、多くの人が犠牲になった。この事故の原因の一つに、過密ダイヤが上げられている。過密ダイヤである上に、それを秒単位で正確に守るという、あたかも機械の作業みたいなことが現場に求められてきたという。
 確かに人間というのは機械顔負けの正確さや、複雑なことをこなす生き物だ。時間感覚にしても非常にとぎすまされた鋭敏さを時として発揮することができる。だが、レールの上を走っているからと言って、そこまで正確な運行が実際にできていることの方が驚きだ。
 中央線などを見ていると、比較的よく遅れている。せいぜい1分くらいの遅れならそれほど少なくないと思う。
 それでも、電車に限らず、多くの交通が、昔に比べると時間に正確で、これこそが文明の進歩の一つのように感じてしまう。
 前にも書いたが、昔北海道で、浜中という駅で釧路行きの列車がなかなか来なかったことがあった。といっても、せいぜい5分程度だったに違いない(それほど正確な記憶はない)。それでも、非常に遅れていたという感覚はあった。別にいらいらもしなかったが、不安にはなった。
 海外のように、遅れて当たり前という風土があれば、なのも思わないのだろうが、そもそもいつの日からか、少なくとも電車は定時に来るという暗黙の了解みたいなものが自分たちの中にある。
 このことは悪いことでは決してない。
 そして、その正確な時間と、スピード、それらを求めてきたのは日本人の多くの普通の人たちだ。私はそうではないという人たちは、たまたまそういう環境にいなかっただけの話で、会社に勤めていたりすれば、あるいは会社から家までの距離が遠かったりすれば、やはり途中の交通機関に対する要望は厳しい物になるのだ。
 今回の事故を機に、日本人ももっとのんびりみたいな論調を主張する人たちもいる。それも悪くはない。だが変わるとしたら、なかなか進まないフレックス制をもっと多くの会社が導入したり、例えば交通機関などには、多少遅れてもやむを得ないという気持ちや、それに間に合う分、少し早く出るとか、全体的な努力が必要なのかも知れない。
 
 時計がもたらした効用が、人類を苦しめることがないようあってほしいものだ。

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