今日から環境省の提唱するCOOL BIZのために、ノーネクタイ、ノージャケットが中央官庁や政治家で実施されることになった。小泉首相や細田官房長官などもそういう姿だった。
そもそもこれの目的は、地球温暖化防止のために冷房温度を28度にするためで、ノーネクタイやノージャケットが目的ではない。義務化されているわけでもないし、多くの省庁や政治家も、今まで通りの面白くもないスーツ姿だ。
さて、そもそもノーネクタイなどということを言うのであれば、猫も杓子もネクタイを巻いてスーツを着ていることに違和感を感じるどころか、そうでない姿を失礼とする暗黙のコンセンサスにこそ問題はある。判で押したようなそんな姿でないと、あたかも一流の大人ではないかのような風潮が、21世紀に入っても、いまだに世界の多くで当たり前であるかのような状態こそ、私には不思議でならない。
不思議なことに、多くのサラリーマンなどと話をすると、「ネクタイしないでよくていいね」などと言われることがある。私は会社に勤めているときからネクタイなどほとんどしたことがないし、そのことで何かを言われたことはない。・・・・唯一、学生の時の会社訪問の時かな。「会社訪問」のつもりが泣く、既知の先輩にちょっと話を聞こうと思ってアポを取り、言われたとおり会社に伺ったら、私以外の他の大学生が一緒で驚いた記憶がある。その折に、「ネクタイぐらいしてきた方がいいよ」と言われた。私はバイト帰りの私服だった。
ネクタイを締めると、仕事をしようという気になるという人がいた。それはその人のことで、あらゆる人に敷衍されることではない。女性はよく制服があるが、なぜ女性にだけ制服があるのかと言うところも疑問だが、制服がない場合、意外に女性の服装はフリーだ。なぜ男だけが、みなスーツにネクタイなのか、どう考えても解せない。
「楽だから」という主張がある。他の服を考える必要がないからだという。だったら、他の人はその人なりに楽な服装で良かろうというものだ。決して楽だからスーツなのではない。結果的にそういうこともあると言うことだ。
ハリウッド映画などで未来を描くとき、案外ネクタイなどしていない。面白いと思う。
現代のスーツ姿というのを、あたかもビジネスマンの定番のように見るのは、「マナー」とよく似ている。「マナー」には2つあって、単純に相手に対する礼儀という意味でのマナーと、歴史的に何となく形式化されてきた礼儀とがある。前者は他人に対する慮りや、人が生きていく上で当然のことながら、守るべきものだが、後者は必ずしも全てがそうではない。守ろうという努力がなければ自然淘汰されてしまうようなものはたくさんある。祝儀・不祝儀袋の水引の方向やら、出し方などは、そのうちどうでも良くなるか無くなるだろう。それでよい。
スーツにネクタイはこういうことに似ている。さっさと自由になっていくべきだ。その中でスーツにネクタイという姿はあってもいい。私自身も時には着ようと思う。そういう中の一つでいいはずだ。スーツがちゃんとしていて、シャツ1枚がちゃんとしていないなんて、いったい誰が決めたんだ?確かにジーンズは昔は西部の労働者が着ていたかも知れない。ガンマンとか。でも今はそうではない。ジーパンで会社に行ったっていいじゃないか。
まあ、COOL BIZとやらが、どうもピントのぼけた方策でも、うまいこと機能してくれればそれでいいとは思う。かつて羽田孜が省エネLookとか言って半袖のスーツを着ていたことがあったが、逆にそこまでスーツにこだわる理由が分からなかった。もう少し自由に、バリエーションを持って社会生活を送りたいものだ。
個人的には、公の機関での「制服としてのネクタイ+スーツの着用」という暗黙の了解に問題があると思っている。だから会社内輪の制服はネクタイはそれこそ全く不要と言わざるを得ない。官公庁は市民国民に対するマナーとしてネクタイを着用しているのであろうが、それこそ作業服である制服(予めお断りをして、文句言う輩が居るので)を着用すべきであろう。私は、ネクタイは礼服だと考えているから。
医者でネクタイをしているヤツが居るが、感染源だと既にエビデンスが成り立っている。当たり前なのだが、なかなか昔の教育でそれが修正できないでいる。ただ、だからといって手術着で全てをまかなう、ってのも程度問題であろう<汗。何事にもTPOが大切。
だから、記者会見場のジーパン姿のホリエモンは、失せろ!<苦笑