由比敬介のブログ
人の名前
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人の名前

人名用漢字の答申が出た。
これを見ると結構難しい字が多い。読めても書けない文字がたくさんある。
以前案が出されたときには、「糞」「屍」「癌」なんていう字が含まれていて話題になった。そんな名前を子供に付ける親がどうかと思うが、いないとは限らないので使えないようにしておくに越したことはない。
ただ、使えるようになった字の中でも、これはどういう風に使うのかな?と思う漢字の方が多かったりする。言ってみれば、人の名前としてどうよ、みたいな。
名前というのは苗字も含めて、自分で選ぶことができない。
鈴木一郎でも、大リーグ記録を塗り替えるほどになると、天下のイチローなわけで、名は体を表すというのは名前負けしない中身という意味に近いと思うが、所詮は名前というのは記号に過ぎないのだと思う。物や人を他と区別するための記号だ。
だが、人間というのは面白いもので、その記号にこだわる。
自分の子供が幸せになるように名前を付ける。自分の名前は好きだとか嫌いだとか、果ては、名前で人生まで決まるというお話しまで出てくる。

かくいう私も由比敬介などという名でホームページを運営し、ここでもそういう風に書いている。最近たまに文章をの依頼があるときでもその名前を使う。本名もあるのに。
昔、編集の人に、「本名の方がいい」と言われたことがあった。
ある意味、客観的に考えると、あながちそういう意見が出るのも不思議ではないと思う。なぜなら、私の本名は、かなりの確度で間違えて読まれる。決して難しい字ではないのに間違える。音としても、文字としても難しくはないし、多くの人が名前としてではなく口にするような音だ。だから間違えるのかも知れないが。
だから本名を使わないというわけではない。
どちらかというと気分の問題だと思う。
あるいは、ペンネームという響きにあこがれていた頃の名残かも知れない。
ただ、いずれにしたところで、別の名前を使う場合、人間は日常的な自分とは別の人格を演じていたり、何らかの形でそこから切り離した行為をする場合がほとんどだろう。悪い場合は詐欺だったりするわけで、これはまさによろしくない行為ではあるが、例えば芸能人がカメラの前と普段が別人格だったりするのも、ファンなどにとっては軽い詐欺に等しいものかも知れない。

以前、栗本薫の文章で「自分は多重人格だ」みたいな記事を(後書きだったかな)読んだことがあるが、病的な多重人格はともかく、仕事と家庭、あるいは誰と誰というように場合によって人は別の人格を演じているのが普通ではないだろうか。
誰の前でも、あるいは自分一人の時でも、なにも変わらないという人がいたら、それはそれで貴重だ。
名前というのはある意味で、自分の人格とその個人を結びつける記号だとすれば、時には違う名前を使えるというのもいいかもしれない。国民総背番号制みたいに、一人一人のIDがいい形で確立される世界が来れば、そのときには登録制で複数の名前が使える世の中が来てもおかしくはない。
仕事の時は実直そうな名前、彼女の前ではかっこいい名前なんていう風に。
サインやはんこ、カードと暗証番号、結局のところ完璧にその個人を特定できる仕組みがないから、勝手に口座から預金が引き下ろされてしまったりする。きっと指紋や声紋、光彩など、個人を特定する技術が進めば、記号としての名前など、会話をするときの相手への呼びかけ程度にしか重要ではないだろう。
もちろん、100の名前を持つ男なんて、ミル・マスカラスみたいな人間が友達だったら、あるいは迷惑かも知れないが。

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