高倉健が「不器用」というとかっこいいわけだが、器用、不器用という表現の中には、「抜け目がなく、要領よく立ち回る」という意味があり、そうでない場合でも、「器用」と言うことは、必ずしも人のメリットではないことが多かったりする。
器用貧乏なんていう言葉があったりして、本来であれば利点であるはずのことが、いいように使われたりする場合があることを示唆している。
そういう意味で、器用というのはなんだか非常に小手先の感じがある。
あるいは不器用という表現は、何かをできないことに対する生来の特質であるからやむを得ない的な、いいわけとして使うことも可能なわけだ。
うまくこなすという意味の「器用」というのは、つまり、生来持っている特質であるから、言ってみれば天賦の才なので、努力で培われたものではないから、それほど人前で自慢することもないだろうと言うこともあるのかも知れない。
ただ器用も、テレビチャンピオンくらいになると、「器用」という言葉の枠には当てはまらないようなこともあるようだ。つまり器用とは、やはり小手先の技能なのだろうか?あるいは世渡りのうまさを表す言葉としても、実力外というニュアンスがあるような気がする。
しかし実は器用であることは、実生活の様々な場面に於いて有用なことであるし、不器用であるよりは器用でありたい。
私は小学校1年の時に、お面を作るんだったか何かで、紙に穴を開けようとして、そのまま指まで切った。すぐに病院に連れて行かれたほどなので、深かったのだと思うし、いまだにその指がしびれることがあるのだから、やばい切れ方をしていたのだとも思う。それ以来というわけでもないとは思うが、自分で自分を器用だと思ったことがない。
私は20代の前半からパソコンをいじっていたし、30前後からはワープロを叩き、今ではパソコンを扱うことを生業にしている。だが、ブラインドタッチなどできないし、いわゆるホームポジションでキーボードを叩くこともできない。誤字脱字が多いのは、ワープロソフトのせいもあるし、それ以上にいいかげんさが災いしているのだが、ミスタッチによる不器用さの表れみたいな部分も非常に大きい。
ところが時々人から器用だと言われることがある。いったいどこが器用なのよ?と言いたいが、ある時期から、不器用に見せないコツみたいなことを少し解ったような気がする。できないことをできるように見せる、いわば「似非」なのだが、それも一つの処世かも知れない。
いわば高倉健が映画の中で持っていないと言い切り、それ故かっこいいところを、私は少しだけ持っている、要するにかっこわるい人間だと言うことなのかも知れない。