由比敬介のブログ
<なみおか映画祭>今年限り ポルノ上映で補助金打ち切り
<なみおか映画祭>今年限り ポルノ上映で補助金打ち切り

<なみおか映画祭>今年限り ポルノ上映で補助金打ち切り

 まさにタイトルのような記事がYahoo!に載っていた。毎日新聞の記事だ。
 なみおか映画祭のホームページを見ると、2004年のままで、更新されていない。
 記事によれば、「日活ロマンポルノを特集する企画に、市教委が補助金130万円を打ち切り、会場も貸さなくなった」という理由で無くなるらしいが、神代辰巳の特集とも書いてあるので、単純にロマンポルノを流そうとしていたわけではなく、神代辰巳を扱えば否応なしにロマンポルノの作品群があると言うことなのだろう。
 よく最近、ロマンポルノと昨今のAVを比較して、あたかもかつてのロマンポルノには芸術性があって、最近のものにはないというような見方をする人がいるが、そういう見方はどういうものかな?と思う。この記事にも「文化庁は日活ポルノの芸術性を認めて補助を決めていた。」という行があった。
 ロマンポルノに芸術性がないとは言わない。そもそも芸術性なんていう言葉は、非常に曖昧で、人によって取り方が違うわけだから、必ずしも多数のコンセンサスが得られることが必要なわけではない。文化庁がそういうなら、そういうことだ。
 私がロマンポルノを見ていたのは、浪人時代から大学のせいぜい2年くらいまでの短期間だった。場末という表現が似合いそうな映画館でごくたまに観た。
 18禁という意味では現代のAVと同じだし、環境から言えば、現代のAVの方がより多くの人間が簡単に観ることができる。
 昔、「エマニエル夫人」という映画があって、日本でも相当流行った。私が高校生の時だ。70年代を記憶している人の多くは、籐椅子に座るエマニエルのポスターについては印象深かったはずだ。
 私から観ると、日活ロマンポルノも、エマニエル夫人も、AVも、大同小異だ。いい物もあれば悪い物もある。AVだからといって十把一絡げにして「悪」のレッテルを貼るのは、「ハレンチ学園」を排斥しようとしたPTAと何ら変わりはない。
 「エマニエル夫人」や「O嬢の物語」と言った作品は言ってみれば日活ロマンポルノの海外版で、芸術性などよりも娯楽性が高いことは言わずもがなのことだ。そもそもこの芸術と娯楽は簡単に同居できる種類の性質で、決して対極にあるわけではない。音楽なんてまさにそうで、クラシックを芸術芸術と奉ったところで、楽しいから聞いているわけだ。
 映画も同様で、芸術的かどうかは、評論家や研究家が決めることで、観る側には関係ない。小説だってそうだ。谷崎潤一郎が書けば文学で、川上宗薫や富島健夫がエロ小説(すげー古いから、今なら杉本彩とでも書けばいいのかな)というような事にしてしまうのは一部の人間の発言故だ。
 もともとエロチックな衝動というのは人間であれば誰しも持っているし、求める物だ。男女の差もない。もちろん、方向性や程度、趣味など人によって大きく違うこともあるが、大局的には本能だ。これは、子孫を残そうなんていう生物学の授業のような本能とは違い、もっと実際的で、なおかつ妄想的だ。
 そしてそれを具現化したのがロマンポルノであり、官能小説であり、AVだ。
 自ずと制限や規制はあるから、どの映画祭でどういうものを取り上げるのか、どこからお金が出ているのか、様々な問題がある。神代辰巳を扱うことは、「ベッドタイムアイズ」や「咬む女」「青春の蹉跌」を扱うのと同じ線上で、「四畳半襖の裏張り」や、多くのロマンポルノを扱うことでもある。
 女の裸やセックスシーンが出てくればエロ映画というのであれば、昭和50年代のテレビ時代劇など、相当にエロかった。だからといって、セクハラっていうことも含めて、適材適所という考え方もある。
 セクハラというのは、客観的行為で誰が見てもハラスメントなものと、かなり親告的に取り上げない限り、セクハラには見えないことがある。だがどちらもセクハラであるように、神代辰巳の作品あるいは、日活ロマンポルノ(括ってしまうことにも問題はありそうだが)に、芸術性を見る人もいれば、ただのスケベな映画としか見ない人もいるのだ。
 この世はなべてバランスが大事。肉を食ったら野菜も食べないといけないが、営業周りの前はニンニクは避けた方がいいという、いわば処世は、時折煩わしくもあるが、時に阿っておいた方がいい場合もあるのだ。
 そんなニュースだと思った。

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