釈迦

 瀬戸内寂聴の「釈迦」という文庫を読んだ。
 瀬戸内寂聴自体が初めてで、多分今後も読まない予感はあるが、「釈迦」は面白かった。
 元々仏教関係の書物や、キリスト教関係の書物は好きで、よく読む。当然今回もタイトルで買った。
 弟子のアーナンダの一人称を中心に釈尊の最後の旅を描きながら、仏典にある釈迦と仏教教団のエピソードをうまく織り込んでいた。特にエンディングはよく書けていて、ああ、この人はこういう作風なのだ、と思わせてくれた。
 この作品は、まだ最近の作品のようなので、瀬戸内寂聴が出家して大分経ってからの作品だ。恐らく満を持して、という表現が当たるような作品なのだと思う。尼僧が釈迦を描くというのはそれなりの思いがあるだろうから。
 釈尊教団の中での女性の位置というのは、あまり正当ではないと思う。元来、人間社会は多くの場面で、女性は男性よりも一段下だったり、汚れていたりという扱いを受ける。
 女性の持つ色香が、その持ち主の価値を下げるものなのか、それに惑う男がいけないのかは難しいところだが、確かに宗教的な側面から見れば、修行の妨げになるのは間違いない。仏教的にいうなら、煩悩の最たるものであろう。
 私は手塚治虫の作品の中で最も好きなのは「ブッダ」と「ブラックジャック」だが、ブラックジャックが好きなのは、いつものスーパーヒーローが好きな、私のステレオタイプの漫画嗜好に過ぎないが、「ブッダ」の方は若干違っている。「ブッダ」の中で、特にタッタとパンダカという、手塚のオリジナルキャラクターが、好きではないのだ。つまり、あれは非常によく描けてはいるが、仏典が持つエネルギーを手塚が超えられなかったのだと私は思っている。そして、仏教譚としては非常にエネルギッシュなのだ。
 
 寂聴の「釈迦」は、非常に静かで、悟りに近い雰囲気が非常に良く伝わってくる。
 釈尊が、この世を苦しみといい、この世は美しいという。この二律背反の中にこそ、生き方の神髄があるように思える。
 仏典の中に、自分の子供を亡くした母親が、仏陀に生き返らせて欲しいとすがる場面がある。仏陀は、誰も死んだことのない家から芥子の実をもらってくるようにいい、そうしたら生き返らせてあげると告げる。母親は必死で探すが、誰も死んだことのない家など存在しない。人の死は誰にでも訪れるものだと言うことを理解した母親は仏陀に帰依するという下りだが、昔から私はここがどうも納得できない。
 確かに死は誰にも訪れるし、この本の中にあるように、人は死するために生まれてくるのだ。生まれた瞬間から死への行進を始めるのだ。だが、そうだとしても、この世に姓がある限り、その長短は意味がある。少なくとも、赤子で死ぬか、成人するかだけでも大きな違いだ。
 それを、死は誰にでもという、いかにも共通のプラットフォームである最後の瞬間だけに集約させて諭すというのは、神の国に生まれ変わるという論旨で、この世の生を儚いものにしてしまう多くの宗教と同じように、欺瞞にしか見えない。
 もちろん、実はそこを超えて、別の意味はある。この世が苦に満ちていると説く仏教の教えは、そこを原点とし、だからこそこういう生き方が正しいという筋道を立てることに成功しているので、それは、人の死を諦観ではなく、静謐という心の動きで受け止めることを可能にする。
 前段の話も、実は死んだ子供は返ることはないという受け入れを、母親にさせるための方便でもあるわけだ。この世が苦に満ちているのは、一軒平等であるような人間が、実は不公平に生まれ、育ち死んでいくことも含めているに違いない。誰にでも共通に訪れる生老病死だが、その様相は個人差があるのだ。
 だが人が獲得した考える能力は、その中から悟りを生むこともできる。
「この世は美しい」という仏陀の言葉は、まさに、この世を美しいものと捉えるも、苦に満ちていると捉えるも、実は往々にして表裏一体であることの謂いであると、私には受け取れた。

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