由比敬介のブログ
氷壁
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氷壁

 私の読書は非常に偏っている。読んだことのない著名な作家、特に大家が山ほどいる。ことに日本文学の作家はそれが甚だしい。夏目漱石をきちんと読んだことがない。教科書に出ていた何かと、「坊っちゃん」「吾輩は猫である」の2作の冒頭のみだ。
 これは一つの例で、森鴎外も、学校で言われてやむを得ず、「高瀬舟」を読んだ。三島由紀夫も、川端康成も、ほとんど読んだことがない。三島は、「潮騒」の火を飛び越えるシーンだけ、中学生の時に読んだ。理由は言うほどのこともない。
 井上靖という作家も、これまでは全く見向きもしない作家だった。「あすなろ物語」とか「しろばんば」とか、中高生くらいで目にした作品のどれもが魅力的なタイトルとは言えなかった。今でもこれらを読みたいとは全く思わないが、「敦煌」「蒼き狼」「天平の甍」などはこれから読んでみたいなと思わせる。
 そもそも書店で、井上靖のコーナーで目をとめることがないのだから、読もうと思うはずがない。
 読書ばかりでなく、何事も人間はきっかけというのが大事で、それがなければ、新奇なことにはなかなか手が出せないものだ。いや、井上靖を読む程度のことが新奇か?という向きもあろうが、SFばかり読みふけっていた学生時代の私には、新奇なことなのだ。
 吉川英治を読むきっかけはゲームだったし、内田康夫を読むきっかけは水谷豊の浅見光彦だった。池波正太郎はドラマの「編笠十兵衛」といった具合だ。SFや海外文学は、実はそういうきっかけを必要としていないのに、日本人作家の作品に関しては、非常にその傾向が強い。我ながら不思議だ。
 一つは、日本文学特有の香というか、緻密さが苦手だ。私小説という分野も嫌いだし、人間の内面を描くばかりに、スペクタクルに欠ける、あたかもハリウッド映画と日本映画の違いを見ているような感じだ。
 どちらが上とか下とか、質がいい悪いとか、そう言うことではなく、所詮文学なんて好みなので、それ以上のことではない。
 さて、それで今回きっかけとなったのは、NHKドラマのCMだった。1月14日から放映される作品の原案(原作かと思っていたが原案とある。言ってみれば、アイディア拝借ということのようだが、井上靖の作品とは大分内容が違う)という「氷壁」を読んだ。
 さすが大家、文章は上手いし、読みやすい。よく書けているし、それなりに面白く読んだ。尤も、ではこれを皮切りに井上靖に傾倒するかと言えば、それほどのエネルギーはない。
 全体はどことなくメロドラマだし、ラストも好みではない。何よりテーマとなっている「ザイルが切れたか切ったのか」という点は最後まで解ったような解らないような(やむを得ないとしても)、消化不良がぬぐえない。そもそもそんな点を作者が書きたいわけではないとしても、私という読者はその点を納得しない。
 あとがきに、ヒロインの美那子という女性がもっと悪女だったら良かったと、佐伯さんという方が書いていたが、私はそうは思わない。この悪意を持たぬ、しかし微妙に非常識で、わがままな女性だからこそ、この作品はいいのだ。
 世の中で救いようがないのは、悪意を持たず人に害なす人たちだ。
 例えば今回の耐震偽装問題は、非常に悪いことをしているのだが、実はそこに悪意はないと私は思っている。悪意がないからこそ救いようがないのだ。
 美那子は犯罪に手を染めず、結果的に二人の男を死に追いやったように見える。実はそうではないが、そういう見方をすることができる「悪さ」こそが、この作品のキーだ。男を手玉に取っているわけでもなく、そんな意志もないのに、結果的にそうなっているというのが人生の綾であり、不幸だ。
 わたしは主人公がさっさと死んでしまう作品はわりと好きだが、今回の作品はその部分で無理矢理感と、予定調和の臭いがして好きになれない。私だったら、主人公を山で殺すようなことはしない。
 梶原一騎的な、例えばタイガーマスクが子供を助けようとして交通事故で死ぬ、というラストシーンは、ああいうマンガには相応しくないと思うし、むしろ今回の「氷壁」のような作品では、仮に主人公を殺すならその方がましだ。
 もちろん、これも好みだと思う。昼メロに取り上げれば、多分この作品はいいラストだろう。
 今日ちょっとだけどラマのシーンを見た。原案だから仕方がないとはいえ、その人物設定や状況設定をある程度使いながらこの筋運びや人間関係はどうだろう、と思わざるを得ない。主人公の名前などが変わっているのに、相手役の女性の名はそのままで、どちらかというと、「盗作」といわれるのがいやで、やむを得ず原案と書いたかのような、後味の悪さが残る。
 むしろ、「改作」とか、何か書きようがあるだろう。
 初回と今回の2回の一部を見ただけだが、井上靖を読んでしまっているだけに、素直に見られない。
 必ずしも絶賛しはしないが、原作に流れる、静かな川の流れのような、どことなく清澄な感じがドラマには全くない。単独でドラマとしてみれば面白いのかも知れないが、最早そう見ることができない自分がいて、ドラマにはだめ出しをしてしまった。多分、もう見ない。
 それよりしばらくしたら、井上氏の歴史物でも読んでみよう。

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