一人も暮らしの男性は寿命が何年とか短くなる・・・というのをテレビでやっていた。ちょっと見ただけなので、何年だったか忘れたし、結果も見ていない。
よく「寿命が短くなる」とか、「寿命が縮む」などという表現を使う。もちろん、寿命が短くなるなどと言うのは方便だし、表現的には非常に意味がない。
そもそも寿命というのは、人に限らず、「命の長さ」のことで、「平均寿命」という統計的な年数に意味はあっても、「寿命」単独では千差万別で意味がない。
あらかじめ決まっているのが寿命なら、そこを基準に短くなるという表現は正しいが、死ぬまで解らない寿命が短くなるとか長くなるというのは、非常に曖昧だ。
死んだときに、この年齢で死んだのは、何と何が原因だった・・・と思われるとしたところで、それが男性の一人暮らしに起因しているとはとうてい思えない。
この世は因と縁によって成り立つ。原因があって結果があるといった、因果や因縁の律というのは、言葉としては仏教やその前の思想にたどれると思うが、これも実は、結果があって初めてその因果解ると言うことに近い。
もちろん、屁理屈だ。しかし物事を論理的に考えるというのは、実は屁理屈の積み重ねであると思える。理屈と屁理屈の違いは、その理屈の価値の度合いで決まるわけで、あまり価値のないものを屁理屈というのだが、それでも理屈には違いないのだ。
理屈は、物事を論理的に説明するための、いわば数学の証明のようなものなので、非常に明快だ。この世に理屈で割り切れないものなどない。あるとすれば、理屈の元を構成する、数学で言うところの公理の選択が間違っているだけのことだ。
逆に言えば、理屈はあくまで、物事を説明する道具だから、結果から原因を導き出すという行為なのだ。すなわち、この世に因果律がある限り、全てのものは理屈で割り切れる。
寿命が短くなるという表現は、本来それをしなければ生きられるよりも、短い人生で終わるかも知れないという示唆を表す言葉としては、いささか居心地が悪いような気がする。その前にまず、寿命を決めてくれという話だ。
屁理屈は楽しい。