由比敬介のブログ
自殺
自殺

自殺

 最近自殺が多い。数そのものが例年に比べて多いのかどうか知らないが、目立つ自殺が多い。
 ここしばらくはいじめによる自殺が相次いだ。高校生の単位問題では、校長も自殺した。
 元来日本には、自決という言葉があるように、自分の人生を自分で決める的な意味が、時折自殺という言葉には含まれることがある。憤死だったり、殉死だったり、その動機は様々である。
 かつて三島由紀夫が自決したとき、私はまだ小学生だったが、テレビの放送は何となく覚えている。実はそれ以来、三島が好きになれず、何かの時に読んだ「潮騒」以外に、三島作品を読んだことがない。かつての三島由紀夫が、私の目には非常に軍国主義的に映ったからかも知れない。
 かつての武士は、死罪の折ばかりでなく切腹などの手段で命を絶った。場合によって、それは武士道に準じるという意味もあったかも知れない。いずれにしても、最近の自殺というものとは、同列に語ることはできない。
 この世の成り立ちというのは、科学がここまで発達しても、必ずしもその根幹では明快ではない。存在を意味論的に説明しようとすると、不分明な何かに撞着する。
 長い間おそらく問いかけ続けられてきた「人間はなぜ生きるのか」といった問題に、明確に回答を出せる者はこれまでもいなかっただろうし、今後も出てくるとは思えない。できる最大限のことは、人生に何らかの重要な意味を、少なくとも持つことを(それは単純に死にたくないという恐怖からの執着でもいいが)人それぞれに与えると行ったことが精一杯だ。
 自殺は決して意味のないことではない。なぜならそれは、一個の人生を終わらせる行為だからだ。テレビや新聞で、見知らぬ誰かが自殺しても、多くの場合、自分の人生には関わりがない。たまさか友人でも、感情的な同様はあっても、それを何年も引きずることはない。そう言う意味では、最終的に人間個々人は、孤独の存在なのだ。
 だからこそ、何かがあったときに、死を選ぶ人間と選ばない人間が居る。このことはあたかも、何を食べるかとか、どんな企業に就職するかとか、そんなことと実は同じような気がする。単純な人間の強さなど関係ないし、関係あったとして、強い人間が、弱い人間を、「おまえは弱い」という権利はない。
 一つには性格、一つには環境、教育、情報、様々な要因がそこにはある。
 だが、いじめのような外的要因がその引き金を引くとすれば、実際問題それは殺人に等しい。「認識ある過失」程度には罪は重い。もちろん、いじめる側の認識がずっと低いケースもあろうとは思うが。
 だが、学校長などがそういう現実の前で自殺したりするのは罪が重い。但し、その背景にあるのは死を持って償うという、個人の死が何かを償いうるのだという誤った考え方による部分も大きいと思う。
 一体、人の死が、それ以前の何らかの過失や罪をどんな形で償えるというのだろう?
 人の死は、その人が行った過失や罪を、どんな形でも償い得ない。
 それは殺人事件の犯人が、死刑になっても、それは償うためではない。少なくとも現行の法律下で、死刑に処せられるような罪を犯した人間は、人として生きている価値がないから死刑になるのだ。死刑になったからといって、彼(または彼女)に殺された人間の命が、引き替えに戻るわけではない。
 同様に、些細なことに責任を感じても、それで死を選ぶというのは避けられるのであれば、避けるにしくなはない。
 しかしそれでも自殺は、その人間がそれ以外に考えられないところまで追い詰められているからこそ起こすのだ、ということを忘れてはならない。決して彼らにとっても、安直な選択肢ではないのだ。
 考えてみるがいい、むしろ自殺をいけないという人間が、では実際に、他にどうしようもないと思えるような状況に至ったとき、果たして死を選べるだろうか?そう考えると、自殺にいたる決意というのは、生半可な苦しみではないことが解る。
 それでも尚、所詮は100年もしないうちに、嫌でも死ななくてはいけない運命を背負っている我々が、その半ばで死を選ぶというのは、非常にもったいないし、論理的でもない。永遠に生きることなどできないのだから。
 人生のこの難しい動議から、それでも尚、自殺率の高い日本は、まだそれを減らすための社会的努力ができるはずなのだ。それは統計が如実に示している。
 少なくとも、10代半ばくらいで、この世に絶望してしまう子供たちをなくす努力はできるはずだ。
 

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