レ・ミゼラブルといえば、言わずと知れた「ああ無情」、ヴィクトル・ユゴーの名作小説だが、ミュージカルなどは最近では原作よりも有名かも知れない。映画化やドラマ化もたくさんされた。珍しいところでは、榎木孝明主演で原日出子がヒロインをやった昼メロ版もある。最もこれは、半分くらい「モンテクリスト伯」じゃないか?と思える節もあったが。
さて、これだけ多く映像化されたり、多くの人に読まれていると言うことは、当然名作だからなのだが、この小説の真価はどこになるのだろう?
かつて教科書にも「ミリエル氏の銀の燭台」の件は載っていて、あれはあれで、主人公ジャン・バルジャンのその後の人生を決めていく大きな出来事として、一貫して小説全体を流れる主テーマの、まさに最初のエポックとして素晴らしい場面である。クリスチャンでなくても、聖職者かくあるべき、そして至高なる美徳として納得できる。
当然、「レ・ミゼラブル」は、社会の底辺で救い無く生きている様々な人間模様を描きながら、分けても「家族が生きるために」一切れのパンを盗んだというそれだけで、19年間の徒刑生活を送らねばならなかった男が、一人の神父に会ったことから、自分の後半生を人様に捧げて生きていく物語だ。作品の最後に「数奇な運命」とその墓碑に印されたごとく、まさに数奇な人生を送る男の物語だ。
そこには神によって救われる人間という、抹香臭い(キリスト教でもこの表現は有効か?)テーマが延々と横たわり、それは信じる人たるジャン・バルジャンと、信じない人間ジャベールの二元的な対比で、最終的にジャン・バルジャンが勝つという軸で強烈に描かれている。
割と最近上演されたアウグスト監督(だったと思う)のヴァージョンでは、まさにそこが強く強調されていて、まさにジャベールの死で物語が終わっていた。まあ、私に言わせれば、その一点だけであれは駄作なのだが、こういう描き方があってもいいのだろう。
しかし私は、この作品が長く命脈を保ち、常に面白く読める最大の理由は、あれだけ余計な記述の多い(ナポレオン戦争の細かい描写や、パリの地下道の経緯など)作品でありながら、尚これが極上のエンタテインメント作品であるからだと思っている。エンタテインというのは人を楽しませること、すなわち娯楽と私は理解しているが、ある意味これは、一つの例として、物語を通じて思想や信条を読者に伝えることを主眼とする部分と対比させて考えている。
小説が人の手によるものである以上、多かれ少なかれ、思想や信条、あるいはそこで訴えかけたい何らかの情報がそこに込められている場合が多いのは想像が付く。個人的な見解としては、娯楽部分がないがしろにされ、思想性が強く出過ぎた作品はどうも鼻につくので好きになれない。
レ・ミゼラブルは一見、社会は小説のように見える。まして彼の時代背景や、その他の作品を読んだりすると、目的の多くはそこにあったに違いない。
しかし彼は、この作品で、非常に大きな労力をエンターテインメントに割いている。
そしてそれこそがこの作品を朽ちることのない名作として、時代を超えても読み継がれる作品にしている大きな理由だと私は考える。
そして、ミリエル氏の教会の門を叩く場面は、まさにそのエンターテインメントの幕開けなのだ。
以下 明日