昨日の続き。
ミリエル氏のエキセントリックな所行は、極めて強い影響をジャン・バルジャンの上に落とすことで、物語の幕が開ける。これまで人を信じられずに生きてきたジャンは、この後のプティ・ジェルヴェの些細な一件をきっかけに、正義の人として生まれ変わる。
ここで著者はジャンに非凡な才能(力と器用さ)を与えることで、彼を市長にまで登らせ、そこでジャベールとの劇的な出会いを設定する。法が全てで、権威主義的な傾向のある官憲ジャベールを、市長マドレーヌとしてのジャン・バルジャンと掛け合わせるのだ。
ジャン・バルジャンはファンティーヌへの贖罪とと残されたコゼットのために、残りの半生を費やそうとするが、いみじくも彼自身のそれは安寧のためでもあるのだ。
革命と恋愛、社会の底辺でうごめく悪党との絡みを経て、物語は進むが、実はその全てが結末への伏線である。
パリを逃げまどうジャンとコゼット、コゼットとマリウスの恋愛、テナルディエとマリウスの関係、マリウスへのエポニーヌの片思い、登場人物が、これでもかというご都合主義的な運命の糸で縛られながら、それでいてそれを感じさせない力強さで走っていく。
そして、革命のバリケード内でのジャンとジャベールの再会、マリウスの負傷という2つの出来事は、決定的な謎解きの解決編を準備するかのごとく、下水道の出口にテナルディエを潜ませる。
ここまでをもし、丁寧に描いた映画が、ジャベールの死で物語を終わらせたり、一直線にコゼットとマリウスの恋愛とジャンの死という終焉を描いて終わるとしたら、これはもう、ユゴーも泣くに泣けない。
最初の一つの山は、テナルディエがマリウスを訪れ、マリウスにとってのジャンの価値を、奈落から神の位地にまで引き上げるところで訪れる。ここはまさにユゴーの作家としての面目躍如という部分で、これまで張られてきた多くの伏線を、実に小気味よく使っている。そしてここからジャン・バルジャンの救いと死に向けて一気に突っ走る。
最後に「司祭はここにおられる」という救いに満ちたジャン・バルジャンの死でこの小説は終わるが、コゼットの結婚以降がうまく描かれている映画はほとんど無い。
それは恐らく、この作品がエンターテインメント以上の何かであるという錯覚から起きるのだ。しかし第一義、小説としてこの作品が持つ命足る部分は、この見事に綾取られたストーリーの妙だ。かなり強引な部分がたくさんあるが、昨今のミステリに比べたらかわいいものである。
時として小説はごり押しとご都合主義によってかくも面白くなると言う典型であると思う。個人的な思いを述べるなら、ユゴーが必要と思って書いている、ナポレオン戦争の説明部分と、パリの下水道の歴史は蛇足の感は免れない。それがたとえ、ポンメルシー大佐とテナルディエの関係を描くためと、ジャン・バルジャンがマリウスを背負って下水道をくぐる大変さを強調するためであっても、である。
ああ、一度、もっと活劇的なレ・ミゼラブルの映像を見てみたい。そして結末を勝手に解釈して、くだらない終わりにしていないやつを。
デパルデューのドラマはそれでも良くできている方だとは思うが、物足りない。彼の「モンテクリスト伯」ほどひどくはないが、デパルデューがジャン・バルジャンらしくない。もっと厳つい悪党面で、普段悪役ができる人がいい。ジャン・ギャバンなんて、まさにイメージ通りだったのにな。これもよくできているが、どうもな。
って、私自身が、どうも勝手に解釈しているのかな?
いや違う。あれだけのストーリーを思いついたら、そのストーリーの読ませたいに決まっている。まず「レ・ミゼラブル」は小説だ。やはり極上のエンターテインメントなのだ。