私が量子論の本を詳しく読むようになったのはごく最近のことだ。
相対性理論に関しては、10代の頃から興味があり、本を読んでいた。アインシュタインは私にとって尊敬する人物だった。尤も、相対性理論への入り口はSFではあったが。
光を超える速度がないというのは、ある意味SF読みにとっては寂しい事実で、相対論とはいえ完璧ではないだろうと、すぐに思うようになったが、それでもアインシュタインの価値が変わったわけではない。
20世紀が生んだ画期的な科学理論、相対論と量子論。これはあたかも微分は分かりやすいが積分は難しいみたいなイメージで、私の中で量子論について読もうという気がなかなか起こらなかった。
ある意味単純に、宇宙について語る理論と、目に見えないくらい小さいものを語る理論では、宇宙の方が面白そうだという単純な理由だったかも知れない。それと、宇宙論といえば相対性理論だが、量子論は何となく化学っぽい感じがしていたのかも知れない。
宇宙のことは好きだが、結局は文系の私が、こういうものに興味を持っても、科学的なアプローチは難しく、どこかファンタジックなアプローチになる。
相対性理論で言えば、ウラシマ効果であったり、世界の果ての果ての果ての物語であったり、どこはアンリアルな世界観を感じさせてくれる部分に強く惹かれる。
しかし量子論を読んでみると、どうも相対性理論なんか目じゃないほど、その世界そのものがファンタジックだ。
物は物じゃなくて波だとか、目で見るまではそれがどこにあるのか解らないとか、ある大きさ(というか小ささ)を超えると、こことここの間はないとか、まさに現実に我々が生きている社会では想像できないおかしな世界がそこにある。
でも、人間を細かく細かくしていくとそういう世界にたどり着くわけだから面白い。
量子論の基本は、物質を形作る最も小さな粒などは、粒子としての性質と波としての性質を持つという物だが、粒子とはつまり物で、ある一点に目に見えるような状態である、言い方を変えればそこに存在するという性質であり、波というのは文字通り波動だと言うことになる。後者は直感的に理解しがたい。物なのに広がっているとすればそれは既に物ではないのではないか?といいたくなる。
量子論は言う。観測者がその粒子を観測すると、そこにあるが、観測するまではどこにあるかを特定できない。見てないから解らないのではなくて、あらゆる場所に存在する可能性がある。・・・普通に考えても見ていない物はどこにあるかそれは可能性の問題だろうと思うが、そんな現実的に生やさしいものじゃない。
1個の光子が2つ並んだスリットのどちらを通って、向かいの壁にぶつかるかというのがよく出させる例のようだが、右を通ったら左を通らないのではなく、両方通る可能性がある以上、形跡は両方に残るのだ。あり得ん!
だが最前線の物理学は20世紀初めのそんな理論を元に発展し、その理論が生み出した製品もあるようだ。今のコンピュータと違って、量子コンピュータというのが実現されると、今のコンピュータの数千倍の能力があるという。
理屈は突飛でも、現実がそうなっているとしたら、世の中はそうできているのかも知れない。意外と心霊現象の謎なんて、そんなところで簡単に説明が付いたりして。
興味は尽きない。