巌窟王

「巌窟王」と言えば、デュマの傑作、「モンテクリスト伯(”Le Comte de Monte-Cristo”)」を翻訳した黒岩涙香が名付けた名訳であるが(翻訳自体は読んでないので何とも言えないが、「噫無情」と共に、そのタイトルの翻訳としてはこれ以上にない素晴らしい感性を感じる。
 さて、しばらく前にテレビでも放映されたアニメ、「巌窟王」を見た。DVDでだ。
 そもそも、テレビで1度見たとき、怪しい映像で、そのときはまったく見る気が起きなかった。
 ただし、前述の2作、「ダルタニアン物語」「幼年期の終わり」「氷点」の5作は、ぼくの中でのベストファイブでもあるので、たとえだまされると解っていても、映画やアニメは見ておきたい。
 ということで、見た。しかも、全24話中、最初は1話ずつだったが、8話から以降を1日で見た。16話一気見だ。
 正直言って、映像もよくできている。非常にきれいなCGで、キャラクターは好みもあろうが、アニメとしては(というほどアニメを見ていないのだが)非常に上質で、手抜きのない作品だと思う。タイトルバックや、エンディングの映像を見ているだけでも非常に美しく、はっきり言って、20話くらいまでは、ここで絶賛するつもりでいた。
 しかしやっぱりだまされた。がっかりだぜ!!
 以下、複数作品のネタバレを含みます。
 かつての名作劇場のように、子ども向けに名作を解りやすくアニメやまんがで紹介するのは、いいことだと思う。もちろん、対象が大人になっても、アニメ化されることが、決してマイナスだとは思わない。映画であれ、テレビドラマであれ、悪いことではない。
 だが、原作に忠実であるか、大きく逸脱するのかと言えば、後者であれば、実はまあ許せる。
 例えば、「六神合体ゴッドマーズ」という作品があるが、これの原作は横山光輝の「マーズ」だ。これは許せる。何故なら、原作とはいえ、全く違う話だからだ。設定や、キャラクターの名前を借用するくらいであれば、それは問題ない(著作者にとってどうかという話ではなく、あくまで聴取者の立場でだが)。そういう意味で、同氏の作品で「ジャイアントロボ」というのがあり、15年以上前にアニメになったことがある。これは、古いファンの中には嫌う人もいるが、ストーリーが独立しているのでまったく許せる。やはりそれは原作とは別物であるからだ。
 ところが許し難いのは、数年前にCSなどで放映された「新世紀伝マーズ」のような、かなり原作をなぞりながら、エンディングなどだけを大幅に変えた似非作品である。こんないい加減な改編をするのなら、そもそもオリジナル作品でやれよということだ。「マーズ」という作品は、作品の最後に、マーズという少年が地球を破滅させてしまう物語で、宇宙から地球が消滅する。ところが、アニメは、マーズが何に心動かされたか知らないが、静かに去っていき、地球も平和そのまま。こんな作品を書くなら、自分でオリジナル作品を作れよ!と思う。
 さて、今回の「巌窟王」まさに同様な改編がなされている。これはジェラール・ドパルデューの「モンテクリスト伯」「レ・ミゼラブル」と同様、ぼく個人として、まったく許し難い作品だ。あたかも、ポアロが犯人だったというエンディングを作る「アクロイド殺し」みたいなものだ。
 ただし、この時点で書いておくが、「タイガーマスク」と「巨人の星」のエンディングは、原作よりも、アニメの方が遙かにいい。だから、上記を言いがかりと言われれば、そうです、言いがかりですと開き直るしかない。
 さて、「巌窟王」だが、この作品の改編に関して、舞台が未来であり、航海の意味が海ではなく宇宙である点や、男女のペッポや、エヴァンゲリオンみたいな鎧を着た決闘や、恒星間飛行が普通に行われている未来で、若者が携帯電話のような個人個人で連絡を取り合うツールをなぜか持っていないことや、こんなことは全部許せるし、むしろ、アニメ化するにあたって悪くない設定だと思う。
 むしろ、なぜか旧態依然としたパリの様子や社会を描くにあたって、その整合性など苦労をしただろうなとも思う。
 
 主人公を伯爵ではなく、アルベールに設定しているのも、全然かまわない。そのことによって、復讐の順番が違ってくることもいい。アルベールを最後まで登場させるためには、そのために多少の改編があっても、許容範囲だ。
 だが、最後に伯爵を殺してしまうこと、フェルナンをいい男にして死なせること、「待て、しかして希望せよ(なぜここだけ文語調なんだか?)」の意味が、まったく忖度されていないこと、この3点はどうしても我慢がならないし、アニメとしていかに美麗に、脚本の運びなどがいかに上手にできていて、幾多の賞を取ったとしても、それでも尚許し難い。
 ドパルデューの、最後にダンテスとメルセデスが楽しそうに手を取り合って砂浜を走っていくのと同じくらい許し難い。
 まず、「巌窟王」であって「モンテクリスト伯」ではないというのか、巌窟王という魔性を登場させ、無実の罪で牢獄に放り込まれたダンテスが、救いではなく、ただの復讐の鬼(文字通り)となるための設定は、どこかでほぐしてくれれば、それでも良かったが、最後に「死という平安」という形で伯爵を殺してしまうなど、もってのほかだ!これは、「待て、そして希望を持て!」とも絡んでくるが、この言葉がこの物語の実は大きなテーマでありながら、まったく生かし切れていない。
 どこにも待つ人はなく、希望もない。アニメが好みそうな、「人を思う心」とかにすり替えられている。
「待て、希望を持て」は、一つには無実の罪でイフ城に閉じ込められたダンテスが、ファリア神父と出会い、宝を手にして復讐をすることができた、ダンテスならではの人生訓であり、これは、マクシミリアンとヴァランティーヌの恋愛を成就させ、新たな旅に出る伯爵とエデの未来へ向けての言葉でもあるのだ。最初からこの言葉をあたかもテーマ出るように持ち出しながら、では実際伯爵は待って希望を持って何か報われたのかと言えば、奈落に落とされ、さらなる狂気と一体となり、ただ死んでいく、夢も希望もない男でしかない。ストーリーの落としどころとしては下の下だ。
 また、復讐相手のモルセール伯爵ことフェルナンは、最後の最後で、なんだか男らしい死に方をしてるし、しかも絵面はいい男で、メルセデス以外の女にもてたんじゃないの?と突っ込みすら入れたくなる。
 物語の始まりが、月でのカーニバル(原作ではイタリア)の日、モルセールの息子アルベールが盗賊のルイジ・バンパに誘拐されるところから始まるのだが、それもかまわない。原作は、ダンテスが主人公だから、ダンテスが無実の罪に落ちるところから始まるとしても、アルベールのシーンから始めるのは悪くない。だがこのバンパも、最後にダングラールへの復讐で、もっと言い役回りがあるから出てくるので、アニメでは、出てくる意味がそれほどよく分からなかった。でもまあ、これはまったく問題ない。
 モンテクリストは、ヴィルフォールの一家に対する復讐で「ちょっとやり過ぎたかな」と思って、ダングラールを殺さない。かつて世話になったモレル家のマクシミリアンの幸福を祈って手を貸す、など、ダンテスの人としてのいいところを残しながらの復讐譚で、今回のアニメの、人も無げな復讐鬼とはちょっと違う。おそらくそのせいで、全体の流れが変わり、ああいう終わりになったのかも知れない。
 だが、マクシミリアンがヴァランティーヌを連れ出した時点で、ちょっとおかしいと思ったのだ。モルセールが軍鑑を使ってパリを攻撃し、メルセデスとアルベールを銃で撃ったときには、もはや取り返しが付かない三文アニメに成り下がっていた。
 いや、実は、「巌窟王」というタイトルで、デュマの作品を大筋なぞってなどいなければ、非常に良くできた作品だし、むしろ絶賛。・・・ただそれだと見ていないが。
 だが何度も言うが最低のアニメだ。許し難い。
 これを書くのでインターネットを検索していたら、監督は「虎よ!虎よ!」をアニメ化したかったとあった。そ、それであのモンテクリストの額の刺青かよ!と思った。
 またくもう、どこかへジョウントしてしまえ!!!
 
 

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