由比敬介のブログ
文章
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今日、「ウェブ時代の音楽進化論」という新書を購入し、冒頭の十数ページを人待ちの間にちょっとだけ読んだ。
文章の運び自体はともかく、論旨が非常に解りにくい文章を書く人で、面白いテーマなのにどうもしっくり来ない。
文章を生業とする人間というのは、作家から私のように本当にちょこっとだけ依頼を受けて書く人間まで、意外に多岐にわたる。会社勤めをしていても、その業界や企業が出している雑誌や新聞などに寄稿している人も少なくないだろうし、見回してみれば何らかの形で、文章によって収入を得たことがある人というのは少なくないだろう。
小説家だからと言って全員が文章のうまい人たちばかりではない。また、どんな文章がうまくて、どんな文章が下手かというのも、一概にこうですと断定できるほどの基準が共有されているとも思えない。これは一種、歌の上手さということにも似ているような気がする。
ときどき「某は歌がうまいね~」という言葉を聞くことがあるが、その上手いというのは、技巧的に破綻がないという意味なのか、音程を外さないという意味なのか、あるいは心に訴えかけてくるという意味なのか、実はよく解らなくて、結局のところ、好きな人にしか解らない上手さというものが存在することに気づく。
文章も同様で、自分の好きな文体や話の運び方など、あるいは句読点の打ち方一つでも好みが左右される場合があるようだ。また文章も音楽も、「慣れ」というのは意外に大事なことで、「慣れ」て来ると読みやすくなり、内容次第で面白く感じたりもするわけだ。
私は日本人作家よりも翻訳を多く読むのだが、登場人物の名前がカタカナであるだけで拒否反応を起こす人もいる。
それでも、文章というのは一つのコミュニケ^ションツールなので、意味が通じなければそもそも、その文章は目的を果たせないということになる。
変な例だが、ジョン・ケージという人の4分33秒と呼ばれる曲がある。3楽章に別れた曲で、楽器の指定はない。楽譜には全ての楽章にTacet(その楽章は全休止という意味)と書いてあるらしい。つまり、一切演奏しないというのがこの音楽で、4分33秒は初演の時の時間だという。演奏者の我慢できる限界だったのかどうかは知らないが、この間演奏者はピアノの前に座っていただけだ。
これを音楽というなら、書店でたまに並んでいる白紙の本はあれも「書籍」なのかもしれない。尤もこれは自分で書き込むための本だと思うので、目的は大分違う。
意味が通じたあとは、読みやすさということになる。その二つがクリアされて、初めて内容の良さ、というのが文章の最も美しい形であると思う。文体の好き嫌いや、況んや内容においては、個性だと思う。
私は高校時代から急に文章を書くようになったように記憶しているが、それは、なんとなく書きたいことを書き綴る、私の文章を認めてくれた先生がいたからだ。
当時の文章は拙くてきっと読めたものではなかったかもしれない。しかし、人間ほめられると猿同様木に登りたがるらしく、それ以来、なんとなく書くことに喜びを見いだしている気がする。高校の時の小林先生と蕪木先生に感謝だ。卒業以来二人ともお会いしていないが、今の自分があるのは、分けてもこの二人のおかげであると思っている。少なくとも文章に関しては。

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