太閤記

 世に太閤の話は数多い。信長、秀吉、家康と、いわゆる戦国の世を太平に導いた三傑は、それぞれに個性的で、よくホトトギスを呼んだ俳句で象徴的に言われる。
 信長は気性が激しく、残虐さと華麗な戦略が同居した、英雄的な魅力を持っている。家康は泰然自若とし、隠忍と深謀遠慮が持ち前で、時として容貌も影響しているが、狸と評されたりする。しかしこの二人は、元々武士の出で、規模はともかく、家臣を持ち、「殿」と敬われていた。
 それに比べ、秀吉はそもそも武士でもない。ただの百姓で、それが国のトップに躍り出たのだから、異質だ。
 最近ではどうかは知らないが、高度成長期の日本では、この3人の中では秀吉が一番人気があったようだ。かっこいいのは信長だし、結果的に政権を盤石のものとして確立したのは家康だが、最初に天下統一を果たしたのは秀吉だし、やはり、がんばるサラリーマンの琴線に触れるというか、どこかをくすぐるものがあったのだろう。
 
 私も、本人を知っているわけではないが、若い頃の書物で読む秀吉がやはり一番好ましい。信長の破天荒で、無駄な伝統をどんどん排除していく姿勢は非常に共感するところもあるが、なかなか上司や知人にしたくはない感じだ。家康は、一緒にいたらうまい物も食えそうでないし、口うるさそうで、しかも自ら実行して範を垂れるという、いわば一番やっかいなタイプに見えるので、どうも好きになれない。尤も、山岡荘八の描く家康であれば、それはそれ、一目も二目も置きながら遠くで手を合わせて見ていてもいいかもしれないが。
 秀吉が若い頃、本当に小説などで描かれるような人間であったのかはともかく、一介の百姓から太閤にまで上り詰めるためには、ただ才能があって、世渡りがうまいだけでは不可能だろう。それ相応の人望や、人間的な魅力がなければ、人は付いてこない。そういう意味では、秀吉という人は、そこそこな人物であったのだろうと思う。
 運も実力の内と言うが、私に言わせれば実力も運の内なので、結果から判断して運が良かったか悪かったかは判断するしかない不可逆の評価であれば、秀吉は極めて運の強い人物でもあったといえる(所詮終わったあとでしか運がいいとか悪いとか言えないのであれば、運という言葉は非常に軽くて意味の薄弱な言葉ではないか)。
 戦時中に連載されていた吉川英治の「新書太閤記」は、さすがによくできた小説で、面白い。文章はちょっと古臭く感じるが、当時の日本人が鼓舞され、明るさを取り戻したというのも解る気がする。
 今では太閤記といえばやはりこの作品が最右翼で、私はべたべただが、山崎の戦いから賤ヶ岳の辺りが一番好きだ。
 秀吉は関白になってから人が変わったようになるみたいだが、彼は常に外へ外へと発散していくようなタイプなので、頂点を極めると言うことができないのだろう。山の頂上へ行けば、そこから見えるより高い山を目指すような人間だ。私などには到底理解できないバイタリティーの持ち主に思える。壮年期以降の秀吉の行動で、彼の性格が大きく変わったとは思えない。若い時にはいい面に活かされていたエネルギーが、下に向いた時に別な形で出るというのはよくあることだ。
 例えば、政治家というと悪者の代名詞のようなところがあり、確かに様々な悪いことをしている人もいるだろう。しかし、その人が悪人かというとそうではない。とてもいい人だったりする。政治家の行動と人柄は、必ずしも一致するわけではないのだ。
 やくざだって身内には優しい。
 大局的には同じ意味だ。
 秀吉の変質は、立場の変質に過ぎない。日本を統一した秀吉が、必然的に次は海外に目を向けてもあまり不思議なことではないと思う。彼は自分でどうにかなることは誰にでもどうにかなると考えるタイプの一人かも知れない。彼自身が指揮を執って朝鮮の役を戦ったら、あるいは違った結果になったのかも知れない。尤もいずれにせよ、朝鮮の人にとってはさんざんなことだ。
 強い人間はどこかで自重しなくてはいけないと言うことだし、武力で外から民主化をもたらすことが正義だと信じているどこかの星条旗の大統領や、ネオコンと呼ばれている人たちと同じに、秀吉もエゴイストだったのだろう。ある部分。ただ、日本という小さな島国にいて、百姓から太閤に上り詰めた人間が、ではどこを目指せばいいのか?今のような情報化社会ならともかく、彼の生き様はある意味やむを得ないことだったろう。
 でもやっぱり、秀吉は賤ヶ岳が頂点だよなあ。

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