由比敬介のブログ
スティーヴン・セガール
スティーヴン・セガール

スティーヴン・セガール

 セガールというと、俳優でもあり監督でもあり、武術の達人で、大阪弁で喋る大男というイメージだ。
 彼が当たったのは遅いデビューの「刑事ニコ」と「沈黙の戦艦」だろう。後者は「沈黙シリーズ」として日本ではおなじみだ。実際には同じ主人公のものは「暴走特急」だけだから(実は続きを作っているらしいが)、シリーズ物ではないが。・・・やたら沈黙を付けるのは映画会社の情けないところでもあるが、一方、それがセガール作品であることが解るという意味では、効用もあるのだ。
 個人的に最も好きなのは、「暴走特急」だが、取り敢えず、彼が出る作品は、彼の圧倒的な強さが何よりも魅力なので、彼が暴れない作品は余り面白くない(ほとんどないが)。
「沈黙の断崖」「沈黙の要塞」「グリマーマン」「DENGEKI」「アウト・フォー・ジャスティス」「ハード・トゥ・キル」「死の標的」「沈黙の陰謀」「沈黙のテロリスト」・・・最近の物では「奪還」とか、「撃鉄」とか、DENGEKI以来、新しいシリーズを(配給会社が)作ろうとしているようだ。
 こう並べてみても、やっぱりみんな強いな。
 中でも「沈黙の断崖」や、「グリマーマン」での強さは、とても楽しい。どちらも、相手が誰であれ、危機に陥るということがほとんど無い。これはあの力ずくのハリウッドのアクション物でも余りお目にかからない。
 私は常々、こういう圧倒的な強さのヒーローものの素晴らしさを強調するのだが、なかなか賛同を得られない。拮抗する力量を持った敵やライバルの存在が、物語には必ず必要だというのは、私に言わせれば、色恋がなければお話しができないというのと同じくらいステレオタイプの物の考え方で、それらを悪いとは決して言わないが、そうでないものの価値をもう少し考えて、映画にしろアニメにしろ作って頂きたいと思う。
 私は「横山光輝の世界」というホームページを開いているが、氏の作品はたくさんアニメやドラマ化されている。「鉄人28号」「バビル2世」「ジャイアントロボ」「仮面の忍者赤影」「魔法使いサリー」「マーズ」・・・・氏の作品は少年ものに限って言えば、極めて女性の登場人物が少ない。しかし、原作を好む物にとって、そのことがマイナス要因として挙げられるかと言えば、そんなことは決してない。にもかかわらず、アニメになると余計な女性キャラが登場したり、原作では1場面しか出てこないような女の子がガールフレンドになっていたりする。
 これは明らかに、制作者側の意図であり、女性キャラを登場させないと受けないと思っている、“ステレオタイプ”がいるか、制作に携わっている人の多くが、多分、そう言う作品が好きなのだろうが、非常に私としては不満である。
 たまたま今、アニメ専門チャンネルで、横山光輝以外はほとんどアニメ作品やマンガを読まない私にしては珍しく、「ドラゴンボール」を見ている(今更!)。完全に原作通りとは行かないが、それでも、ほとんど原作通りだ。恐らく余計な枝葉に関しては、30分という枠の中で、どこからどこまでを描くにあたって、足りない部分を補っているという感じだ。横山作品をこういう風に描いて欲しいなという羨望しきりである。
 さて、横道にそれたが、セガール作品で、彼が危機に陥らないわけでもないし、好敵手が存在しないわけでもない。だが、彼はそれを圧倒して強いことだけは確かだし、そういう描かれ方をしている。
 だから以前、レンタル屋に行った時に「エクゼクティヴディシジョン」というカート・ラッセル主演の作品が、セガールの棚に並んでいたので借りてきたが、これにはまいった。パッケージにも大きくセガールの名前は入っていたし、確かに彼は出演している。でもなあ、何のためにセガールなんだ?他の俳優で十分だろう。という役柄だ。途中で簡単に死んじゃうし。その死に方だって・・・興味ある方はご覧になるといい。
 それとこの作品の面白いのは、全く同じ内容の別の映画があることだ。「エグゼクティブ・コマンド」という作品だが、テレビで放映されたのを見た時に、どこかで見たというよりは、どうしてこういう映画がここにあるのかという不思議の方が大きかった。
 同じ原作を別々の人が映画にすることはよくあることだし、前にもここで述べた「レ・ミゼラブル」の映画を誰も盗作とかパクリとは言わないと思うが、この映画はその臭いがぷんぷんしていた。
 セガールの映画は強い上に、彼が正義の味方なのがいいのだ。正義の味方なんて臭い感じもするが、こんな世の中だから、正義は大切なのだ。彼が命を張って、しかし圧倒的な強さで倒すのは本当の悪人達だ。「沈黙の断崖」や「沈黙の要塞」では、環境保護をテーマにしているが、そのテーマはともかく、それを守るために、彼は人生を賭けている主役をまじめに演じるのだ。デビューの「刑事ニコ」から、徹底的に社会の悪と対峙するという姿勢を貫き通している。
 最近の映画やドラマの多くは、正義と悪を立場の違いで微妙に変転する物だというような「ものの分かった大人」のような作品が多い。「清濁併せのむ」事を度量としてしまうことが、大人になると言うことであれば、私は喜寿を迎えようが白寿を迎えようが、青い子供のままでいい。セガール作品に流れる、本当にティーンエイジャー並みの正義感は、映画を時にはB級に見せてしまうこともあるかも知れないが、それをB級と感じる我々こそが、その純粋な正義を生活の中で失っているに違いない。
 ものの分かったセガールなど見たくはない。ジミ・ヘンをBGMに使えるセガールがやはり好きだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です