人は何のために生きるかという表現は生きることの目的を問うている文章である。その問は、科学的にも哲学的にも、宗教的にも、そして子供の問、大人の問いかけにもなる。
この世に生を受けたからには、同じ人生を歩む人はいない。これまでの歴史上に何百億の命が生まれて消えていったか解らないが、そのそれぞれが違った人生を歩んでいる。生まれ落ちた瞬間に死する者から、100歳を超えて比較的平穏な人生を送る人まで様々だ。死後の世界があるかどうかは、死んでみないことには解らないし、「生まれ変わり」というのもやはり眉唾の領域を超えているようには到底思えないので、人の人生は一度きりと考えるのが、当面は妥当のようだ。
しかし、生まれながらにして明確な意志を持ち、「俺はこう生きる」と考えている赤ん坊も聞いたことはないので、人はその成長過程の中で生きる意味を見いだしていくというのが、ある意味正しいように思う。
ところが、世の中には別に生きる意味など問わない人も沢山いる・・・と思う。もちろん人生は長いので、似たようなことを特に多感な時期に何らかの形で考えたことがあるという人の方が多いかも知れない。
信長が桶狭間に今川義元を破る前、あたかもこれだけは史実として間違いがないかのように、多くの小説やドラマでも必ず出てくるのが、信長が幸若の敦盛の一部を舞うシーンだ。熊谷直実が平敦盛を討ったことに題材を取ったものだが、信長のシーンの多くは「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか」という部分だ。ドラマにしても小説にしても、このシーンを描く目的は、信長の背水の陣、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれということを強調するためだ。あるいは信長の強運、人と違った様を描くためだったりもする。
この世を夢幻と謳うのは、死に臨む敦盛、あるいはその亡霊の心象なのか、いずれにしても、その儚さはよく伝わってくる。この儚いという字が人の夢という字であるのも、何か事の本質を突いているようにも思える。この世の生の儚いことは、どんなに歴史に残ろうと、そのことを本人は知ることができないことであり、より長い歴史の上から見れば、残りもしないことなのだ。人類の歴史は、歴史として残って以来、せいぜい中国でさえ4千年だ。地球が生まれて50億年近くが経つらしいから、4千年というのはそのわずか0.00008%に過ぎない。これから地球が(今の科学論を信じるなら)、膨張する太陽の内側に隠れてしまうまでまだ50億年。
一人の一生を100年としたとしても、人類の歴史の2.5%しか経験できない。人生とは、かくも短く儚いものなのだ。
何のために人は生きるのか?という疑問は解答のない質問であるが、その答えはもし出すとしても生きている間に出さないと意味がない。試験が終わった後に答えが分かっても、試験の点数には反映されないからだ。
不思議なもので、例えば哲学者の一部などはきっと、このことだけを考えて一生を送る人もいるのかも知れない。一見本末転倒のような気がするが。
自分の人生は波瀾万丈ではないと私は思っている。少なくともこれまでの人生は比較的平板だった。波瀾万丈というのは起伏が激しいと言うことだから、必ずしも望ましいわけではない。グラフで言えば、上の方を横に一直線の人生のがいい。もちろんそんな人生が転がっているはずもないのだが。
だがこの問は、信長ではないが、時に敦盛を舞う気持ちで生きることの重みを教えてくれる。その質問に答えはなくとも、意識がある間は十全に生きる努力をしておいた方がいいと言うことだ。そうすれば、夢幻もいい夢と言うことになるだろう。
自分の個性をどれほどいかせるかためされてるんだよ・・・それは、つらいこともあるけど楽しいことだってある・・・死ぬときに笑って死ねればそれでいいんだよ・・・・・