由比敬介のブログ
神はいるか?
神はいるか?

神はいるか?

 今夜、どこかのテレビ局で、神はいると思うか?というようなテーマで、世の中の奇跡的な事件などを取り上げて、番組をやっていた。ちゃんと見たわけではないが、20年後に木に埋まった弾丸が復讐を果たしたというのと、9.11の時に、奇跡的に助かった盲目の男性の話の部分を見た。
 
 最初のは(実はこれも途中から見たのだが)、妹をたぶらかした男を銃で撃った兄が、人殺しを悔やんで自殺した。ところが銃弾は頭をかすめ、外れていた。男は死んではいなかったのだ。この男はそれからも悪いことをしたが、20年後、その事件があった場所にある木を切り倒そうとした男が、なかなか切り倒せないことに業を煮やして、木を爆破した。しかし爆発を離れた所から見ていた男に、20年前の事件の時に外れて木にめり込んでいた弾丸が、爆発の衝撃で飛んできて、男の額を打ち抜いた。20年後の復讐完遂というお話しだ。
 次のは、9.11の同時爆破テロの時に、貿易センタービルの78階にいた一人の目の不自由な男が、盲導犬に惹かれるままに階下へ降り、助かったというお話しだった。ビル崩落の1分前に1階に着いた男は、レスキュー隊のビルの中央に行けという指示を聞きながらも、盲導犬が引くままに外に逃げ、崩落から一命を取り留めたと言うことだった。この話は神と言うより、犬の素晴らしさを物語る逸話だが。
 恐らくこれ以外にも、いわゆる奇跡的な話が幾つも語られたに違いない。それらの、いわば「奇跡的」という日常的には起こりえないような不思議な体験や事実をもってして、「神」の存在を信じるか否か?というどちらかというとお遊び的な発想の番組だ。本気で神の存在がどうのということではない。
 神というのは「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの(広辞苑)」だ。英語ではGod。ただ西洋で言う神は、多くの場合キリスト教の神を指すことが多いし、それはそれぞれの宗教によって、特定の「それ(人ではないので)」や「それら」を指すわけだ。
 日本にも古来から八百万と言われる神がいる。これらはむしろアニミズム的な神の形態だ。しかも仏教神話やヒンズー教の神話、あるいは中国由来の物まで、多種多様だ。キリスト教とイスラム教、ユダヤ教が唯一神を祀る世界的な宗教だが、キリスト教の三位一体というのはどうも私から見ると怪しい。怪しいというのは否定的な意味ではなく、神とイエスと精霊みたいな、幾つもいるのに実は一つだみたいな表現に怪しさを感じる。
 尤も、面白いもので、日本人が神と聞いたとき、実は多くの人が思い浮かべるのは神道の神々ではなく、キリスト教の神だ。これは、お昼の顔と言ったら誰でしょう?という質問に、「タモリ」とは答えても、あまり多くの人が大和田貘とは言わないというのと似ていて、実は有名だからに過ぎない。言い換えれば、キリスト教が世界宗教であり、イスラム教と世界を二分しているからだ。もう一つの仏教は、信者数で言えば残りの2つに比べると少ないし、そもそも仏教には宗教であると同時に、非常に哲学的な側面があり、見方によっては仏陀による思想として、孔子などに近いとも取ることができるように思う。
 さて、「神はいるか?」という質問は、実は冒頭のテレビなどでは、人知を超越して、我々の人生に関与する絶対的存在はいるのかいないのか?という質問に他ならないし、そういう意味では、「神はいるか?」という質問は非常に難しく、多くの人が答えられるのは、「神はいると思うか」までで、だからこそ神は信仰の対象なのだ。
 鰯の頭も信心からという言葉にもあるように、信じるところから何かが生まれると考えるのが宗教であり、信心なのだ。そういう意味では、神は確かに存在するので、それは物理的な証明など必要がないし、物理的な証明を拒む存在であるかも知れない。
 だが、裏を返せば、前出の奇跡も、奇跡的偶然という非常に便利な言葉で解決できる。
 偶然と、運命と、神の御業は、私が辞書を作れば、同じ意味を書いてしまいそうな気がする。時間軸に連なって、結果から原因を究明するときの解釈の違いによって使い分けられる表現というように。必然という言葉も足してもいいかもしれない。
 いや、だからといって私が神の存在に否定的なわけではない。
 たとえマリア様が血の涙を流そうとも、それ自体が神の存在の証拠にならないように、これまで見聞きしたことでは神の存在をいるともいないとも判断できかねると言うことだ。
 それに、ユダヤ教の神を信じれば、イエスやアラーも神ではなくなる。・・・元々イエスは神ではないと思うが、菅原道真や徳川家康だって神になるし、靖国神社には相当数の神様もいるらしいので、その辺りの何が神で何がそうではないかなどと言うことはともかくとして、我々がこの世に生きる不思議を何物かがその意志によって招来させたかどうか、あるいはその存在が、我々の人生や世界に関与しているかどうか、と言ったことに関しては、時々関与しているように見えることもあるが、そうでないことの方が多い。
 聖書にあるように、神が「怒れる神」だったり、非常に人間的特質を持っているようなら、人々の間に争いが絶えないことも、頷ける。しかし、愛と平和を愛し、この世に幸せをもたらすような、全てが善の固まりのようなものが神だとすれば、到底この世に神は存在するとは思えない。
 だからこそ、もっと自助努力せよと言うような仏教的世界観の方が、この世を救ってくれそうに思えるのだ。
 神の存在の有無というのは、所詮答えのでない難問だが、恐らく信じることはできる。信じる者は救われる。あるいはそんな言葉が真実の一端を示しているのかも知れない。

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