由比敬介のブログ
第九
第九

第九

 12月になると第九の演奏回数が増えるようになったのはいつの頃からなのだろう?少なくとも私がクラシックを聴き始めた時は既にそうだったような気がする。インターネットで調べると、戦時中の学徒出陣の時、今の芸大(東京音楽大学)が、繰り上げの卒業式を12月に行い、その時に演奏したのが元、というような記事を複数見つけることができ、オーケストラとしては今のN響(当時は新交響楽団)が始めたようなことが書いてあるが、まあ、戦後何となく定着していったのだろう。「喜びの歌」という終楽章のシラーの歌詞も、新年を迎えるに当たって良い歌詞と言うことだったのかも知れない。戦中でも、ドイツ音楽なら問題なかったと言うことか。
 恐らく戦後、どんな高度成長期にも、「この世知辛い世の中」といった形容詞は使われ続けてきた。バブルだって高度成長だって、日本人全員が等しく味わっていたわけではない。どんな好景気にだって倒産する会社はたくさんある(逆に不景気だって高成長を続ける会社もあるわけだが)。
 そんな中で、暮れの押し迫った時期に、一年の憂さを晴らすような「歓喜の歌」を、素人でも歌えるこの企画は、非常に一般に浸透しやすかったのだろう。
 今でこそ、オーケストラもたくさんあるし、ホールもたくさんある。演奏家もたくさんいるから、第九の演奏と言ってもそれほど難儀なことはないのかも知れないが、オーケストラと独唱、合唱を入れると、「ちょっとコンサート」という規模ではない。 時間だって1時間以上かかるわけで、楽なコンサートとは言えないはずだ。
 個人的には第九は好きな音楽の一つだ。だが、根がひねくれているので、年末に猫も杓子も(というほどではないことは百も承知しているが)第九となると、あまり聴きたくない。しかも、なぜか小学生の時から知ってる「晴れたる青空、漂うく~もよ~」という歌詞が、何とも脳天気で好きになれない。
 第1楽章の、いかにもベートーベンらしい無骨で重々しい雰囲気が、美しい第3楽章を挟んで、終楽章へ移るわけだが、ここではもう、「晴れたる青空」という感じではなく、もっと宗教的な歓喜なので、「みんなで歌おう、ああ楽し」ではないと思うのだが。
 ただ、この歓喜の歌の第1主題は、個人的にはあまり好きではない。実はこれも脳天気だからだ。ベートーベンの脳天気さというのは、例えば交響曲第7番のような、脳天気であればこそ、「舞踏の権化」と言われても頷けるような、ああいうメロディラインをいうのであって、なぜか聴いていて気恥ずかしくなるような、穏やかすぎる歓喜の歌ではないのだ。
 尤も、同じ主題から出ているにもかかわらず、バリトンの歌い出しはなかなかかっこいい。それは、第4楽章の冒頭と、バリトン歌唱の前の、これまたベートーベンらしい喧噪に満ちたフレーズが、上手く導いているからかも知れない。結果的にバリトンが歓喜の歌の主旋律を歌うと、なんだかまた意気消沈してしまう。
 私のイメージとしては、「歓喜の歌」よりも「天下太平の歌」といった、若干気抜けを感じさせるメロディなのだ。
 実は私は前にマーラーの「復活」の項でも書いたが、この「復活」という曲は、間違いなくマーラーの頭の中に第九があったので、恐らくマーラーはベートーヴェンを心から尊敬していたし、自分自身の第九を書いたのだと私は思っている。
 第九の3楽章が持つ静謐なイメージを第4楽章の「原光」でなぞり、第九が騒々しいフルオーケストラで始まるのを、同様に第5楽章の冒頭に持ってきている。
 私が第九よりも復活が好きな理由は、恐らくこの後の、声楽部分にある。第九の、敢えていうなら惚けたような脳天気さとは違い、あくまで無骨に、厳かなイメージを崩さないマーラーの頑なさが好きだ。
 第九というのはベートーヴェンの交響曲の中でも決してよくできた曲ではないと思っている。3,5,6,7などの方がベートーヴェンらしい。「運命」は手垢が付きすぎていて、当たり前のような曲だが、素晴らしい曲である。
 ベートーヴェンの良さは、私は緻密で細やかな緩徐楽章にこそあると思っている。第九もその例に漏れず、第3楽章が美しい。その余勢を駆って畳みかけるような終楽章の冒頭も、なかなかいい。何になぜ?と言うところだ。
 まあ、これはあくまで個人の好みなので、一般の人がどう考えるかは別のことである。
 クラシックは一頃に比べると大分市民権を得たようで、CDも非常にたくさんの種類が手にはいる。コンサートもたくさん催され、料金的にも手頃なものが増えている。相変わらず外タレはポピュラーと違って、これでもか!という料金を平気で付けているが、1回のコンサートに3万円などという価格が付いていると、見る気もしない。
 よく、この演奏は10万払っても惜しくないなんていう表現にお目にかかるが、私は比喩以上に捉えていない。感動は金で買えないかも知れないが、であれば、金銭的価値に置き換えるのはおかしいので、素直に、こんなに素晴らしい演奏はお目にかかったことがない。と言えば済む問題である。
 著名な指揮者やオーケストラ、演奏家が、ある程度以上のいい演奏をするのは当たり前だから、見に行きたいと思う。また、見るからにはいい席で見たいと思う。しかしそれがお金持ちしか簡単に見られない金額では断念するしかない。
 そういう意味じゃ第九は常に手頃だ。すなわち、多く観客を呼べると言うことなんだろうな。もっとクラシックが人気が出れば、何かが変わることがあるんだろうか?

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